海図なき世界 「ポスト真実」超えて 未来を描き社会を変える
「ポスト真実」が英オックスフォード大出版局から「今年の英単語」に選ばれたのは2016年のことだ。客観的な事実が置き去りにされ、耳に心地よい虚偽情報が信じられるネット時代を象徴する選定だった。
この年、英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票やトランプ氏が勝利した米大統領選で、真偽不明の情報が広がった。それから10年、事態は悪化する一方だ。
Advertisement出版局が昨年選んだ単語は「レイジベイト(怒りのエサ)」だった。交流サイト(SNS)などで偽情報や陰謀論をばらまき、怒りや不信感をあおる行為を指す。昨年の参院選で、外国人の犯罪や社会保障サービスの不正利用に関する偽情報が拡散したのは、その一例である。
現代によみがえる神話
歴史は繰り返さないが、韻を踏む。米小説家マーク・トウェインの言葉とされる。
約100年前のドイツでは、ナチスが第一次世界大戦後の混乱をユダヤ人のせいだと決めつけるプロパガンダで支持を集めた。科学が発展し、合理的な思考が浸透していたはずの社会で、根拠のない言説が勢いを持つのはなぜか。迫害から逃れて亡命したユダヤ系の哲学者らが考察している。
アドルノとホルクハイマーは、ラジオなど新たなメディアが画一化された大量の情報を発信し、聴衆を思考停止させる現象を指摘した。SNSのアルゴリズムによって同じような情報にさらされ、偏った考えに陥りがちなデジタル社会のわなに通じる。
カッシーラーは、極度のインフレや失業がもたらした混乱に目を向けた。自分の力では解決できない絶望的な状況に直面する人々は、極端な主張を信じ込むようになる。それが偽情報や陰謀論のような「神話」を社会に根付かせる養分になると考えた。
現代社会ではグローバル競争を背景に雇用の不安定化が進んだ。新自由主義的な自己責任論も広がる中、格差や貧困などの問題が深刻化している。困難な状況にある人々への目配りを欠いた既成政党は信頼を失い、排外的な主張やばらまき的な経済政策を掲げる政党が受け皿となって躍進する。
多党化した議会は、目先の利益ばかり追求するポピュリズムに傾斜する。複雑な問題に長期的な視座で対処する力を失いつつある。
20世紀型の市場経済は短期的な利潤の最大化に走り、公害や気候変動などの問題を引き起こした。代議制民主主義は次世代の人々の利益を反映しにくい。人工知能(AI)がもたらすリスク、社会保障や財政の持続性、食料確保といった未来に影響を及ぼす課題に適切な解を見いだせていない。
システムに問題があるのなら、改善すべきだ。社会変革の手段として「フューチャーデザイン」と呼ばれる取り組みが、行政機関や企業、大学などで広がっている。数十年後に生きる「将来人」の視点に立って未来のあるべき姿を描き、今求められることを考える。
思いやりの力を生かす
岩手県矢巾町は10年前、町政に導入した。住民が「将来人」になりきって政策課題を議論する場を設け、提言をする。いきなり未来に飛ぶのではなく、まず過去の失敗や成功から現在の課題を学び取る。そのうえで「あってほしい将来像」を考え、今なすべきことを導く。
目前の問題にとらわれて個人の利害に固執するばかりでは、意見を異にする側との対立を深める。将来に責任を持った判断もできない。議論を通して理想的な未来を描く過程では、社会的な視野がおのずから備わるという。同町は、水道を将来にわたって維持するための料金値上げを住民自ら提案し、実施したことで知られる。
フューチャーデザインを提唱する西條辰義・京都先端科学大特任教授は「人間には相手の立場に立って物事を考える能力が備わっている。将来世代の幸福を今の自分の幸せだと感じる力はあるはずだ」と述べる。
たとえ立場は違っても、同時代に生きる人々の問題意識や悩みを共有し、それを将来世代にも「拡張」する。そうした試みこそが、分断を修復し、社会の持続性を保つ力になるはずだ。
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平和で豊かな社会を築く「海図」として構築された秩序が揺らいでいる。漂流する世界で、新たな道しるべを探したい。