震災きょう15年、被災地各地で祈り 天皇ご一家も皇居で黙禱
11日、2万2千人以上が命を落とした東日本大震災の発生から15年となった。もう15年、まだ15年――。東北の沿岸部では夜明け前から、それぞれの思いを胸に、慰霊碑や墓前で手を合わせる人たちの姿があった。
旧大川小学校で行われた追悼イベント「大川竹あかり」=2026年3月11日午後5時58分、宮城県石巻市、小宮路勝撮影児童と教職員計84人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市の旧大川小学校で、午後5時すぎから、「大川竹あかり2026」が開かれた。当時の児童数と同じ108本の竹灯籠(とうろう)にあかりがともされた。
「伝え続ける」「忘れずに前へ」といったメッセージを貼ったキャンドルが用意され、大川小の校歌が流された。奥田恵子さん(66)は、毎年3月11日に旧大川小に足を運ぶが、竹あかりに参加したことはなかった。「やっと足を運べるようになった。15年前に関西から駆けつけてくれた親戚にこんな風になったよと報告できる」
岩手県大槌町の追悼施設「鎮魂の森」では午後6時45分、町内の震災犠牲者数と同じ1286本のキャンドルが並べられた。高校2年生の志土富(しととみ)葵さんは「震災を体験した人の話を思い出しながら、キャンドルを並べました。こういうイベントを通じて記憶を伝承していければいいな」と話した。
天皇ご一家も皇居で黙禱
天皇、皇后両陛下と長女愛子さまは11日、東日本大震災発生から15年に合わせて皇居・御所で黙禱(もくとう)した。宮内庁が発表した。
両陛下は愛子さまを伴い、今月25~26日に岩手、宮城の両県を、4月6、7日に福島県をそれぞれ訪れる予定。
上皇ご夫妻も、東京・元赤坂の仙洞御所で、被災地の様子を伝えるテレビ中継を確認しつつ、黙禱した。
渡辺謙さんがメッセージ
十五年という歳月が経ちました。痛みや苦しみが消える事はありません。でも生きて前を向いて歩いていくことしか出来ないんでしょうね――。11日、俳優渡辺謙さんからファクスで送られてきたメッセージが、宮城県気仙沼市の老舗酒蔵、男山本店魚町店舗のレジカウンターに掲示された。
渡辺さんは、市内で自ら経営するカフェにメッセージを送っていたが、昨年12月に閉店。その後は毎朝、親交の深い男山本店に送付している。
俳優の渡辺謙さんから届いたメッセージ(画像の一部を加工しています)=2026年3月11日午後3時25分、宮城県気仙沼市魚町2丁目、福留庸友撮影東京電力は、午後2時46分に合わせ、福島第一原発の新事務本館(福島県大熊町)で黙禱(もくとう)を捧げた。
小早川智明社長は、廃炉作業を担う社員約240人に「当社にとっての最大の使命は、福島への責任を果たすことになる」と強調。「そのためにグループ一体となった確実な経営改革の執行が求められている。心を一つにワンチームとして行動していきましょう」と呼びかけた。
東京・霞が関の経済産業省前では11日午後、脱原発を訴える集会があった。約100人(主催の市民団体発表)が集まり、「原発反対」「核のゴミを増やすな」と声をあげた。主催団体の運営メンバー、木村雅英さん(78)は「震災から15年が経ち、(過去のデモ参加者のなかには)亡くなった人もいる。これからもがんばり続けないといけない」と話した。
午後2時46分に黙禱を捧げる東京電力の小早川社長(右)ら役員たち=11日、福島県大熊町の東京電力福島第一原発東京・銀座では午後2時46分、地震発生時刻に合わせて、「SEIKO HOUSE時計塔」の鐘が11回、鳴り響いた。歩行者たちが立ち止まり、1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。
東京都中央区の文筆業の女性(60)は、仙台市に住んでいた20代の友人を津波で亡くした。「大事に生きないといけない。こうして立ち止まって原発などの問題について考えるのが大切だと思います」と話した。
東京・銀座で「SEIKO HOUSE時計塔」の鐘が11回、鳴り響く中、歩行者たちは黙禱をささげたり、撮影したりしていた=2026年3月11日午後2時46分、東京都中央区、杉山あかり撮影高市早苗首相は、福島市で開かれた県主催の東日本大震災追悼復興祈念式に出席し、地震が発生した午後2時46分に黙禱(もくとう)した。その後のあいさつで、「巨大地震と大津波、そして東京電力福島第一原子力発電所の事故は多くの県民の皆様から日々の暮らしを奪った。最愛のご家族やご親族、ご友人を失われた方々の気持ちを思うと哀惜の念に堪えない」と述べた。
首相は原発事故の被災地で、帰還を希望する住民が戻れるように除染やインフラ整備を重点的に進める「特定帰還居住区域」の認定が進んでいることに触れ、「復興は着実に進展している」と述べた。除染土の最終処分について「段階的に2030年以降の道筋を具体化させていく」と改めて強調した。
災害対応の司令塔となる防災庁について「今年中に設置すべく準備を加速し、災害に強い国づくりを進めていく」と述べた。
東日本大震災追悼復興祈念式でのあいさつを終えた高市早苗首相=2026年3月11日午後3時4分、福島市飯坂町、神野勇人撮影宮城県庁で11日にあった追悼行事では、県立多賀城高校災害科学科2年の板橋恵愛(えな)さん(17)が、「震災を経験している最後の時代の1人として、記憶と学びを伝えていく責任がある」とメッセージを読み上げた。
全国で災害が多発するなか、防災について学びたいと、震災の教訓の継承などを目的に2016年に開設された同科を選んだ。
「記憶は時間とともに少しずつ薄れていってしまう。だからこそ学び、考え、伝え続けることが、お亡くなりになられた方々への祈りにつながるのではないか」と呼びかけた。
盛岡市では午後2時40分から、岩手県主催の追悼式があった。震災伝承の語り部を続けている釜石高校2年の森真心(こころ)さんが「未来へのメッセージ」と題して、被災を語り継ぐ決意を語った。
森さんは震災当時2歳で、「記憶がないからこそ自ら学び、受け取り、伝えていく責任がある。記憶のない世代だからこそできることがあると思います」と力を込めた。
宮城県が設けた献花所で「未来へのメッセージ」を読み上げる板橋恵愛さん=2026年3月11日午後2時54分、宮城県庁、高橋昌宏撮影死者・行方不明者が計831人にのぼった宮城県南三陸町では、5年ぶりに追悼式典を実施した。会場となった町総合体育館には遺族や町民が集まり、地震が起きた午後2時46分に合わせて黙禱(もくとう)した。
自らも津波にのまれ、九死に一生を得た佐藤仁・前町長が昨年に勇退。後を継いだ千葉啓町長は式典で「災害後を生きているのではなく、次なる災害への備えの中を生きているという自覚を持ち、この街から命を守る術を探り続けてまいります」と述べた。
町は震災10年となった2021年を区切りに毎年の式典実施を見送り、5年ごとの節目で開催する方針を示している。
阪神・淡路大震災の被災地でも追悼
阪神・淡路大震災の被災地の神戸市でも11日午後、追悼行事が開かれた。
会場の東遊園地(中央区)に集まった参加者らは、犠牲者を悼むガス灯「1・17希望の灯(あか)り」からとった火をろうそくにともし、「2011 3・11つむぐ」の文字の形に並べた。
「1.17希望の灯り」の火が分灯された、岩手県陸前高田市の「3.11希望の灯り」の所在地ともオンラインでつなぎ、午後2時46分、現地のメンバーとともに黙禱(もくとう)して祈りを捧げた。
宮城・村井知事「何とかここまで来た」
宮城県の村井嘉浩知事は11日午後、県庁で報道陣の取材に応じ、「今思えばあっという間だった。みんなで力を合わせて、何とかここまで来たなという思い」と語った。
震災を知らない世代が増えているとして「教訓を伝えていくため伝承に力を入れていかなければ」と答えた。
岩手県大船渡市のみなと公園。震災の犠牲者の名前が刻まれたモニュメント前で午前11時、刈谷佳子さん(82)は海に向かって手を合わせた。そこに、夫の勝美さんの名前もある。当時70歳。「優しい人でした。いまでもすぐそばにいるような感じがする」
佳子さんの実家は、昨年2月に市内で発生した大規模山林火災で全焼した。「いろいろあった15年、あっという間でした」と話した。
震災の語り部「想定外は起きる」
職員ら43人が犠牲になった宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎では午前11時半、当時の町の係長で、震災後に語り部になった高橋一清さん(65)が「ハザードマップで色がついていない地域の人たちも津波に襲われた。想定外は起こる」と訪れた人たちに語った。
地震直後に庁舎へ駆けつけた高橋さんは、避難所運営のため高台の中学校へ向かった。高さ約12メートルの庁舎は想定をはるかに超える津波にのまれ、とどまった同僚たちと高橋さんは生死を分かつことになった。
「人を守らなければならない立場の人たちであっても、まずは自分の命を守るために逃げてほしいと思う」。骨組みだけが残る庁舎を前に、険しい表情で語った。
震災遺構となった旧防災対策庁舎のそばで語り部活動をする高橋一清さん=2026年3月11日午前11時52分、宮城県南三陸町、大山稜撮影福島県浪江町にある東日本大震災の遺構・請戸(うけど)小学校では午前11時から、震災当時を語り継ぐ紙芝居が上演された。
請戸小は15年前の地震の発生時、15メートルを超える津波に襲われ、校舎の2階床上まで浸水した。82人の児童と13人の教職員がいたが、高台に逃げて全員無事だった。
紙芝居の後、語り部の八島妃彩(ひさい)さん(60)は「翌日、さらに内陸部まで避難するように言われ、原発の事故が起こったらしいと思った。私は50キロほど北の相馬市に逃げた。西に逃げていたら、避難生活はさらに過酷なものだっただろう」と振り返った。
行方不明者の手がかりを求め、海岸を捜索する岩手県警宮古署員ら=2026年3月11日午前10時15分、岩手県山田町船越、坂田達郎撮影岩手県内では今も1106人の行方が分かっていない。県警と海上保安庁は午前10時から、身元特定につながる手がかりを求め、山田町の海岸を捜索した。
昨年10月には、宮城県南三陸町で23年2月に見つかっていた骨の一部が、山田町で津波にのまれた当時6歳の女の子のものと判明し、遺骨が遺族のもとに戻った。
捜索に参加した宮古署の小瀧心珀(こはく)巡査(19)は「身元が判明した女の子のことを知り、地道な捜索活動の大切さを実感した」と話した。
東京から来た小池駿さん(29)は11日朝、宮城県気仙沼市の景勝地「岩井崎」で朝日を見つめていた。「東京にいると忘却の波にのみ込まれる。それにあらがうために来た」と、旅行で三陸沿岸を巡っているという。
震災当時は中学2年生。東京の自宅も激しい揺れに襲われ、近所のコンビニから商品がなくなったのを覚えている。だが15年たった今、東京ではそれが何事もなかったかのようだ。
3年前の3月11日も、気仙沼市の同じ場所から日の出を見ていたという。時折、被災地を訪れ、街の景色が復興で様変わりしたのも見た。「人々の意識が防災の鍵になると思います」と、次の災害への意識を新たにした。
原子力規制委員会トップ「問い直すのがこの日」
原子力規制委員会の山中伸介委員長が11日午前9時40分、原子力規制庁の職員に訓示した。東京電力福島第一原発事故で原発の安全神話が崩壊したとし、「あのとき何を誓ったのか、問い直すのがこの日です」と切り出した。
今年1月に発覚した中部電力浜岡原発(静岡県)の審査データ不正問題を挙げ、「不都合な真実を覆い隠そうとする沈黙は組織を内側から腐らせ、やがては取り返しのつかない事故の火種となる」と述べた。
こうした電力会社の「隙」は、規制側の「慣れや慢心がなかったかを問いかける鏡」だと指摘。「あの日への誓いを単なる儀式に終わらせてはならない。私たちは自らの内側にある病理を自らのメスで切り裂く覚悟を持たなければならない」と訴えた。
「もう寂しい場所じゃない」
仙台港にほど近く、物流拠点となっている仙台市宮城野区の蒲生北部地区。震災当時、地区内にあった自動車販売店に勤めていた高宮久美さん(54)は午前8時10分、追悼施設「なかの伝承の丘」で手を合わせた。
背後から押し寄せる津波を感じながら、必死に逃げたことを覚えている。「あの時の景色は鮮明。もう15年だなんて」
昨夏、なかの伝承の丘の隣に大型遊具が設置され、子どもたちでにぎわうようになった。「いい変化ですよね。もう寂しい場所じゃない」
穏やかな海上では朝早くから漁師が働いていた=2026年3月11日午前5時59分、宮城県気仙沼市沿岸、福留庸友撮影約1万1千人が犠牲になった宮城県。高台に避難した約60人が命を落とし、「杉ノ下の悲劇」と呼ばれた気仙沼市杉ノ下にある慰霊碑には、夜明け前から人々が足を運んだ。
「過ぎてみればあっという間の15年。今も、当時の集落の情景がよみがえる。残念で悔しい」
午前7時20分、宮城県気仙沼市の農業佐藤信行さん(75)は慰霊碑に花を手向けた。高台付近に避難した母と妻を津波に奪われた。「何とか1人で暮らしている。子どもたちの行く末を見守って」。心の中で語りかけた。
毎年早朝に旧大川小学校を訪れるというパート従業員(57)の女性は、震災で娘を亡くした。校舎に向かって花束を手向け、祈ると涙があふれた=2026年3月11日午前6時20分、宮城県石巻市、小宮路勝撮影午前6時50分には、井戸端久夫さん(79)が手を合わせ、お経を唱えた。震災まで豆腐屋を50年営んでいたが、配達先の知り合いが多く亡くなったという。「震災で廃業になったけど、俺は一生懸命やってっから、って伝えに来た」
岩手県宮古市では11日午前6時から、市民約1600人が参加して避難訓練が行われた。
震度6強の地震が発生し、高さ3メートルの津波到達を想定した。訓練では市民らが避難所を開設し、38カ所の水門を閉じた。
朝日に照らされる「奇跡の一本松」=2026年3月11日午前6時1分、岩手県陸前高田市、竹花徹朗撮影午前6時には、市内全域でスマホに緊急地震速報が流れた。会場の河南中学校には次々に市民が駆けつけ、体育館で避難所開設の訓練をした。捜索用のドローンも飛ばし、県防災ヘリが上空を旋回した。
水や非常食を配った宮古市婦人防火クラブ連合会の盛合敏子さんは「震災当日は県の振興局で働いていた。毎年訓練に参加し、あの日を忘れてはいけないと感じています」と話した。
警察庁や復興庁によると、震災による直接の死者は全国で1万5901人、今も行方がわからない人は2519人いる(いずれも1日現在)。避難中に体調を崩すなどし、この15年間で災害関連死と認定された人は3810人(昨年末現在)だった。
原発事故により、国や自治体から福島県の12市町村に避難指示が出た。徐々に解除されたが、7市町村に居住が制限される「帰還困難区域」が残る。面積は計約309平方キロメートルで、東京23区の半分ほどに及ぶ。