なぜ世界はガザを見捨てたのか?イスラエルが手に入れた「格好の言い訳」(ダイヤモンド・オンライン)
1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で結ばれた和平条約「オスロ合意」。この合意は両者の共存を目指す重要な一歩と見なされたが、その後、和平交渉は停滞。現在も熾烈な紛争が続いている。その背景には、イスラエルだけでなく、パレスチナ自治政府の選挙で勝ったハマスを認めない世界各国の姿勢も関係していた――。※本稿は、高橋真樹『もしも君の町がガザだったら』(ポプラ社)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 見せかけの和平だった 「オスロ合意」 1993年、歴史上はじめてイスラエル政府とパレスチナの代表による「オスロ合意」という和平条約が結ばれた(注1)。調印式では、これまで敵どうしだったラビンとPLOのアラファトが、はじめての握手をした。このオスロ合意では、これまで存在を否定していたおたがいが認めあい、対話していくことが決められた。 オスロ合意にもとづいて、アラファトの率いるPLOは、逃亡先のチュニジアからパレスチナにもどって「パレスチナ自治政府」をつくった。その後、1996年には初の選挙を実施して、アラファトは初代大統領に選ばれた。 そして、ヨルダン川西岸地区を拠点に暫定自治を始めた。「暫定」というのは「とりあえず」という意味で、しばらくしたら本格的な自治体制に移行していこうという約束だった。 パレスチナ自治政府がめざしたのは、ガザ地区と西岸地区とをあわせた地域で、独立国をつくることだった。国際社会は、紛争が続いたパレスチナ問題が解決に向かうのではないかと期待した。 (注1)ノルウェーの首都オスロで、ノルウェー政府が間をとりもち、イスラエル政府とパレスチナ代表団の交渉を秘密裏におこなったことからこの名がついた
ところがその後、合意はまったく機能しなかった。オスロ合意には、巧みなワナがしかけられていたんだ。オスロ合意では、おたがいの存在を認めあった。でも、両者の立場は対等ではなかった。イスラエルは国なので、PLOがイスラエルを認めることは、その国の土地(パレスチナ全土の78%)を認めることになった。 でも、パレスチナ側は国ではない。イスラエル側は、PLOを「交渉相手」と認めただけで、残り22%の土地の権利も、パレスチナ国家も認めたわけではなかった。 さらに、難民問題や入植地、エルサレムをどうするかといったむずかしい問題については、あとから話しあうことにしていた。それが大問題だった。 ● 「オスロ合意」は 形をかえた“占領” オスロ合意により、ガザ地区とヨルダン川西岸地区の一部は、「パレスチナ自治区」になった。まず、ガザ地区はパレスチナ人が自治することになった。規模の大きな西岸地区は、A・B・Cという3つの地区に分けられた。 パレスチナ人が自治をするA地区の面積は、西岸地区のたった18%で、しかも、バラバラの飛び地になっている。一方で、イスラエル軍が管理するB地区とC地区は、西岸地区の82%だ。 予定では、その後の交渉でA地区の面積を広げることになっていたが、交渉は進まず広がらなかった。 1948年以前に歴史的にパレスチナとよばれてきた地域(イスラエル国家とパレスチナ自治区をあわせたエリア)を基準にすれば、ガザ地区とA地区とをあわせた面積は、全体の4%以下の土地にしかならない。