中絶よぎった「3人目」 世帯年収1200万円でも悩んだ母の決断
梅雨らしい曇天が広がっていた。約10年前の6月下旬の空を、関東地方に住むアイさん(仮名、50歳)は今でもはっきりと覚えている。自宅近くの総合病院を1人で訪れたのは、3人目の子どもの人工妊娠中絶手術を受けるためだった。
家計か子どもか――。急速に進む少子化の背景に、子育てにかかる経済的負担を理由に切実な選択を迫られる人がいる。20日に投開票される参院選では与野党を問わず、子育て支援や現役世代の負担軽減を政策に掲げている。子育て世代が抱く将来への不安を払拭(ふっしょく)することはできるのか。
Advertisement「また働きたい」、その矢先
アイさんの計画外の妊娠が判明したのは、2番目の子の小学校入学式を終えてほっとした頃だった。
当時40歳。上の子2人は小学生だった。1番目の子は勉強が得意で、私立中学の受験も視野に入れていた。
子どもたちが希望する進路をかなえるためには、今後ますます教育費や生活費がかかる。高齢出産の不安に加え、今後の教育費や生活費など、子育てに伴う経済的な負担への不安が重くのしかかった。
アイさんは大学卒業後、正社員として勤めていたが、第1子出産を機に退職。夫の転勤に伴い、縁がなかった関東地方へ転居した。
上場企業に勤務する夫は早朝から夜遅くまで働きづめだ。出張も多く、遠方に住む両親も頼れない。
家事と育児を一手に引き受ける中で、将来の子どもたちの学費を見据え、再び働きたいと考えていた。3人目の妊娠判明は、その矢先のことだった。
もし出産すれば、当面は働くことは難しくなる。何より3人分の教育費をどうやって捻出するのか――。
「すでにいる子どもたちを育て上げなければ」。出した結論は、中絶だった。産んでほしいと望んだ夫を説得し、手術の予約を入れた。
「引き返せますか?」
その当日、子どもたちには「お友達と会ってくるから、パパと待っていてね」と告げて病院へ向かった。
でも、その道すがら、事前の検査で目にした胎児のエコーの写真や心拍が心から離れない。2人の子どもが赤ちゃんだった頃の記憶もよみがえった。
病院の玄関先で夫と電話で話し合い、助産師に尋ねた。
「もし気持ちが変わったら、まだ引き返せますか?」
結局、手術は受けなかった。
無事に生まれた3人目の子どもは、現在小学生だ。
産んだことに後悔はない。しかし、あの時に不安を抱いた経済的な負担は、予想通りに重くなった。
金額だけなら「上位1割」
2024年のアイさん一家の世帯収入は、夫の収入を中心に約1200万円。金額だけで見ると日本で上位1割に入る高収入層だが、世帯構成や住む地域では、その意味合いは大きく変わる。
さまざまある公的支援は、所得制限がかかることがほとんど。配偶者控除は適用されず、昨年までは児童手当も減額されていた。長子が高校生の時には、高校授業料の無償化制度も対象外だった。
アイさんは打ち明ける。「世間から見たら余裕があると思われるかもしれませんが、実際の生活は自転車操業です」
収入から引かれる所得税や社会保険料などの金額は大きく、差し引いた24年の手取りは800万円台になる。
住宅のローン、地方の大学へ通う長子への仕送り、夫の小遣いや出張先での食事代などを引くと、アイさんが家計に使えるお金は月20万円台だ。そこから、子どもの塾代や光熱費、家族4人分の食費などを支払う。
毎月の家計から貯蓄に回す余裕はほとんどない。勉強が得意な1番目の子は結局、中学受験をせず、公立中高に通った。下の子どもたちにも「うちは公立だからね」と言い聞かせてきた。
支援は拡充されたけど
今年4月から、子どもが3人いる世帯の大学授業料が無償化され、アイさん一家も対象となった。一息つけたものの、下の子たちが大学に通うころには長子が大学を卒業するため、子どもの人数は「2人」とみなされ、再び無償化対象からは外れることになる。
「支援は拡充されたけれど、子どもたちの教育費や生活費がすべてまかなえるわけではない」。アイさんはため息をつく。
アイさんのような世帯は、日本の現役世代が直面している負担の大きさを象徴している。
増え続ける社会保障負担
厚生労働省によると、24年の日本人の出生数は68万6061人と過去最少を記録。1人の女性が産む子どもの数にあたる合計特殊出生率も1・15と過去最低で、人口維持に必要な水準(2・07)を大きく下回る。少子化に歯止めがかからない中、社会保障制度の財政構造が深刻な課題を抱えている。
日本の年金・医療・介護制度は、給付を受ける高齢者が増える一方で、保険料を支える現役世代は減り続けており、負担が増している。アイさん世帯の24年の社会保険料は年間約180万円にのぼった。
財務省によると24年の国民所得に占める企業と国民の社会保障負担率は18・4%(見通し)で、20年前から約5ポイント上昇している。税負担も含めると、45・1%になる。
また、総務省の「家計調査」を基に、2人以上の勤労者世帯の社会保険料の平均額を第一生命経済研究所の谷口智明研究理事が分析したところ、00年の58万円から24年には83万円に増加していた。勤め先からの収入に占める負担率は9・1%(00年)から11・9%(24年)に上がった。
支援拡充に「独身税」?
現役世代の負担に対応するため、政府は26年4月から「子ども・子育て支援金」の徴収を始める。
支援金は、公的医療保険料に上乗せする形で全ての国民から徴収し、児童手当の拡充など子育て世代への支援として還元する仕組みで、主に子育てを終えた高齢世代から子育て中の現役世代への再分配の機能がある。
児童手当の所得制限撤廃や、3人目以降の子への給付額倍増など、特にアイさんのような世帯への支援が手厚い。
ただ、支援金は全世代が支払うことになるため、子どもがいない世帯にとっては純粋な負担増となる。
その理解は得られているとは言い難い。交流サイト(SNS)では「独身税だ」とやゆする声もある。
安心して産める社会「まだ遠い」
政府は、賃上げや社会保障制度改革による給付の見直しを通じて、保険料全体の伸びを抑え、支援金による負担増を吸収したいともくろむ。
しかし、その先行きは不透明だ。歳出削減に向けたメニューには、医療や介護の窓口負担の見直しなどがあるが、負担増につながる可能性がある。
参院選では、立憲民主党が別の財源確保案を掲げて支援金制度の廃止を求め、国民民主党は「教育国債」発行による子育て支援を提言するが、各党の主張はバラバラで、実現可能性も不透明だ。負担増につながる社会保障制度の見直し議論も下火となっている。
アイさんは、児童手当の所得制限撤廃などの政府の動きを「貴重な一歩」と評価しつつも、こう語る。
「私のように、子どもを持つ喜びを知っていながら、それでも中絶するかどうか迷うような人がいる社会では、少子化の流れは止まらない。子どもを安心して産み育てられる社会の実現は、まだ遠いと感じます」【堀菜菜子、塩田彩】