昭一君に保守再生の軸を期待していた 中川先生と同じ繊細さ 握手で別れた1週間後の訃報
《第1次安倍晋三政権退陣後の平成19年12月、有志議員による「真・保守政策研究会」(後の「創生『日本』」)が結成され、参加した》
会長は中川昭一君。僕は当時、無所属でしたが、昭一君に「最高顧問になってほしい」と頼まれたのです。
自民党は公明党と連立政権を組んでから、衆院選で「小選挙区は自民、比例代表は公明」と呼びかけていた。これでは党の足腰が弱くなる。自民党に代わる「健全な保守の受け皿」が必要ではないかと。当時の民主党にも保守系はいたので、彼らを巻き込んだ新しい第三極を作って、政界再編が必要だな―と考えていたところでした。
初会合では「保守議員は文化、伝統などをしっかり守っていくことが必要だ」と呼びかけました。対馬(長崎県)の土地が韓国資本に相次いで買収されている問題で現地視察をするなど、それなりの活動はしました。第2次安倍政権の誕生や今日の高市早苗政権の誕生は、日本国民が保守政治を必要としていることの表れだと思います。
《次世代の保守政治家として期待していたのは中川氏と安倍氏だったという》
僕が小泉純一郎政権で経済産業大臣を退任し「無役」になって以降、この2人は何かと僕に「議連の会長をやってください」と言ってきたものです。
昭一君は、中川一郎先生(元農林水産相)の後継者でした。中川先生は家族の話をほとんどしませんでしたが、昭一君に関するこんなエピソードを聞きました。尊敬する北海道のジャーナリストがいたそうで、その人の名前「昭一」を長男に名付けた―と。昭一君に特別な思い入れがあったのでしょう。
彼は麻布(中学・高校)の後輩であり、大卒後は日本興業銀行(現みずほ銀行)に勤務しました。彼には、北海道での中川先生の人気を見て、後を継ぎたいという思いがあったのかもしれません。ただ、先生と同じように繊細なメンタルが気がかりで、本当に政治家向きだろうかと思うことがありました。
昭一君は小泉総理に気に入られ、農水大臣や経産大臣をやりました。中国も権益を主張する東シナ海での油田調査を始めたし、大臣としての実績をつくったと思います。その後も重要ポストに就きました。
昭一君は(21年8月の)衆院選に落選しました。その直前に私のところに来て、「私は自民党(公認)じゃなくていいんです」と漏らしてね。僕と一緒にやろうと考えたようですが、そのときは「自民党から出馬すべきだ」と背中を押しました。
選挙が終わった後も、すぐ来たんですよ。大変意気消沈してね…。「君が設立に尽力した『真・保守政策研究会』を通じて共にがんばろう」と1時間くらい語り合い、握手をして別れたのです。
昭一君の訃報を聞いたのは、それから約1週間後の10月4日でした。郁子夫人(のちに衆院議員)が北海道から戻って帰宅したら、すでに冷たくなっていたということです。享年56。中川先生は57歳だった。父と同じような最期なんだな。昭一君を軸に保守の再生を考えていただけに、残念でした。
安倍君は、じいさん(岸信介元首相)のDNAを引き継ぎ、剛直で正しい歴史観を持ち、総理としてよく頑張り、実績を残したと思います。
もっとも、彼にとって僕は「中川一郎の秘書」だったのではないかな。僕が亀井静香さんらと清和政策研究会を飛び出すとき、彼は動きませんでした。昭和57年の総裁選に中川先生と安倍晋太郎先生が立候補したとき、僕が中川先生を応援したことは、安倍君の心のどこかに引っかかっていたのではないかと。(聞き手 今堀守通)