オカルトを科学的に解明しようとした天文学者の「知性への愛」
1870年頃のフランスにて、交霊会に参加する人々。宙に浮くテーブルに驚いている様子 Photo by Hulton Archive / Getty Images
Text by Phineas Rueckert
フラマリオンの有名な写真がある。乱れた栗色の髪を中央で分けた彼が、宙に浮くテーブルのふちを掴んでいる写真だ。彼を取り囲む着飾った人々の表情からは、紛れもない恐怖が読み取れる。そのなかでフラマリオンだけが、懐疑的とまでは言えないものの、なにか疑うような表情を浮かべている。
この写真に最初に目に留めたのは、フランス人作家のローラン・ポルティシュだった。彼はフラマリオンの人生とその冒険を再解釈した歴史小説シリーズを手がけている。「何が衝撃的だったかって、浮遊したテーブルを囲む人々のなかに、名高い天文学者がいたことです」。電話取材で、ポルティシュは興奮気味にそう語った。
ポルティシュも私と同様、数年前にフラマリオンを巡る謎に深く魅了された一人だった。そして、その写真を見たポルティシュは疑問を抱く。当時のフランス合理主義の象徴的存在だった著名な天文学者が、なぜスピリチュアリズムや霊との交信、幽霊屋敷やUFOといった神秘的な事象を探求していたのか?
「カミーユ・フラマリオンは、科学への情熱と神秘への好奇心とのあいだで葛藤していましたが、それこそが彼を特徴づける顕著な性質でした」とポルティシュは述べる。
この二面性は時代背景によっても説明できる。フラマリオンが成長したのは、歴史的に見ても特異な時代だった。19世紀半ばは、写真や電信の発明、光ファイバーの原理の発見が相次いだ、科学技術の大きな飛躍と革新の時代だ。
「当時は、どれほど突飛なアイデアや常軌を逸した発明であっても、科学的検閲によって革新的な試みが阻まれることなく、流通した時代でした」と、歴史家のパトリック・フエンテスは当時の風潮について記述している。「常識に捉われないものこそが進歩を促し、時が経てば真価が明らかになると信じられていたのです」
また、この時代はスピリチュアリズム、すなわち霊媒師が生者と死者の境界を越えて交信できるという信念体系の、全盛期でもある。1840年代に米国で発祥したスピリチュアリズムは、瞬く間にヨーロッパへと広まった。
フラマリオンが参加していた降霊会は、決してマニアックなイベントではなく、19世紀後半のフランスのエリート層のあいだで絶大な人気を博していたという。
なかでも流行していたのが「テーブル・ターニング」だ。テーブルがひとりでに回転し、ときには宙に浮かぶように見える現象を囲んで座るという余興である。
作家で政治家でもあったヴィクトル・ユーゴーをはじめとする、フランスの著名な知識人たちを魅了した(ユーゴーはナポレオン3世の治世中、ジャージー島に亡命していた際、霊媒を通じてシェイクスピア、プラトン、ガリレオ、イエスと会話したと主張している)。 フラマリオンもご多分に洩れず、フランス・スピリチュアリズムの父と呼ばれるアラン・カルデックが書いた1857年のベストセラー『霊の書』を読んで、スピリチュアリズムに興味を抱くようになった。当時フラマリオンはまだ15歳だったが、すでに最初の天文学研究『複数の居住世界』の執筆に取り掛かっていた。
この若き天文学者はカルデックに手紙を書き送った。カルデックは、死者との交信方法を発見したと主張するニューヨーク州北部に住むフォックス三姉妹の噂を聞いて、スピリチュアリズムをフランスに広めた人物である。彼は1869年に急死するまでフラマリオンの親友であり続けた。
パリ・サクレー大学の教授で、『幻想的なパリの地図』の著者であるフィリップ・ボードゥアンによれば、フラマリオンはスピリチュアリズム運動に興味を惹かれつつも、懐疑的な姿勢を崩さなかったという。
「フラマリオンが何より関心を持っていたのは科学的な観察でした」とボードゥアン教授は語る。「つまり、ある現象の実在を信じる前に、物理的かつ科学的な意味で、それを経験する必要があったのです」
フラマリオンはまさにその方針に従って超常現象の調査に着手した。降霊会に参加し、霊媒師と対話を重ね、フランス各地の幽霊屋敷を訪れながら、その観察記録をノートに書き留めていった。その一連の観察記録は、現在ジュヴィシー・シュル・オルジュにある「フラマリオン・アーカイブ」に保管されている。
こうした超常現象の研究が、フラマリオンの初期の天文学に関する著作に影響を及ぼしたことは間違いない。『複数の居住世界』では、地球外生命の存在の証明を試みた。その続編『現実と想像の世界』では、死後の生命は存在するのか、そしてその世界は私たちの世界と共存しうるのかという問いを、自然な流れで提起した。
カルデックの死に際して、フラマリオンは弔辞を述べる役割を担った。そのなかで彼は、自身の残りの人生を通じて歩むことになる道筋を示した。
「スピリチュアリズムは宗教ではなく、私たちがまだABCさえ理解していない科学なのです」とフラマリオンは切り出している。
「生命の神秘は何から成り立っているのか? 魂はどのように生命体と結びつき、どのように体から抜け出すのか? 死後、魂はどのような形態で、どのような条件下で存在するのか? どのような記憶や愛着を持ち続けるのか? 紳士の皆様方、こうした数々の問題は未だ解決からはほど遠く、これらが一体となって未来の心理科学を形作ることになるのです」
同時代の他の科学者とは対照的に、フラマリオンは超能力や超自然的な現象の解明に全力を注いだ。フランス屈指の天文学者としての名声を梃子に、オカルト研究に邁進したのである。だが、大衆的な成功を収め、超常現象の研究を進めたことで、科学界とのあいだに溝が生まれることになった。
「科学の境界を越えることを厭わなかったがゆえに、彼は科学界の一部から眉をひそめられる存在となったのです」とボードゥアン教授は説明する。
フラマリオンは名門パリ天文台で、海王星の発見で知られるユルバン・ルヴェリエに師事していた。だが、天文台の尊大で技術偏重な姿勢に嫌気が差して、自身の研究を追求するため早々に機関との関係を断ち切った。 1882年、フラマリオンは裕福な支援者からパリ近郊に3階建ての邸宅を寄贈され、そこを天文観測の拠点とした。数年後、彼は屋根に高さ約5メートルのドーム型天文台を取り付け、大型望遠鏡を設置した。
現在、ジュヴィシー・シュル・オルジュにあるフラマリオンの邸宅は、一般向けの観光コースには含まれていない。見学には建物の鍵一式を保管するフランス天文学会(SAF)のアーカイブ管理者への予約が必要だ(もう一式の鍵は市役所が管理しており、庭園は犬用の公園として整備されている)。
だが当時、この場所には人々がひっきりなしに訪れていた。天文台の落成式は盛大に執りおこなわれ、ブラジルの皇帝まで出席したほどだった。
現在「シャトー」と呼ばれるこの敷地を案内しながら、SAFのボランティア・アーキビストのジャン・ゲラールは、当時は光害がはるかに少なかったはずだと説明した。いまとなっては最高レベルの光害がある区域に入っているが、それでも天文台はいまも限られた人たちに向けて、ときどき天体観測会を開催している。
シャトーの近くにある文書保管所で、ゲラールはフラマリオン宛てのファンレターをいくつか見せてくれた。白い手袋をはめて『一般天文学』の製本された1冊を手に取ると、彼はある熱烈な崇拝者にまつわるエピソードを披露した。サン・アンジュと名乗る外国の伯爵夫人が、死後に自分の皮膚をなめして本の表紙に使ってほしいと願い出たというのだ。
真偽はさておき、この逸話は当時のフラマリオンの著作がいかに人々を魅了していたかを如実に物語っている。彼のもとには世界中の崇拝者たちから何百通もの手紙が舞い込み、幽霊や超常現象の体験談が寄せられた。
晩年、フラマリオンはこれらの手紙を、スピリチュアリズム研究の基礎資料として活用するようになる。やがてそれは1909年の著書『神秘的な精神力』と、1924年の幽霊屋敷研究にまつわる最後の著作に結実することとなった。
世紀の変わり目頃から、フラマリオンは有名なネパール人霊媒のユーサピア・パラディーノをはじめ、数々の霊媒師たちを定期的に招いて、自宅の居間で降霊会を開いていた。
年齢を重ねるにつれ、フラマリオンはオカルトに対してより慎重な姿勢を取るようになった。晩年には「死者が姿を現すのは例外的で、ごく稀である」という結論に達し、幽霊現象は「生きている人間の精神力による遠隔作用」によって説明できると考えるようになった。
つまり、幽霊は存在するかもしれないが、超常現象は特殊な能力を持つ人間に起因すると考えるほうが妥当だ、という見解に落ち着いたのである。
「フラマリオンは考え方を大きく転換させました」とボードワンは指摘する。「霊媒研究の過程で詐欺師やペテン師と遭遇したことで、さらに懐疑的になりました。それでも、1925年に亡くなるまで、この分野の研究を決して諦めませんでした」
フラマリオン自身、『神秘的な精神力』のなかでそれを認めた。「ほとんどの読者はこう問うだろう──これらの研究にいったい何の価値があるのか?」と、彼は序文で書いている。
「テーブルが浮遊し、さまざまな家具が動き回り、椅子が移動し、ピアノが上下し、カーテンが揺れ、不思議な音が聞こえ、心のなかの問いへの応答があり、文章が逆から語られ、手や頭、幽霊の姿が現れる──これらはただの陳腐な現象か安っぽいトリックに過ぎず、科学者や学者が注目するに値しない。たとえそれが真実だとしても、何を証明するというのか? 私たちはそんなものに興味をひかれない」
「私に関して言えば、宇宙という壮大な謎に向き合う一介の探求者に過ぎない」と彼は結んでいる。「だからこそ研究を続けようではないか。誠実な探求は、必ずや人類の進歩に貢献するという確信を胸に」(続く)
シャーロック・ホームズを生み出した作家のアーサー・コナン・ドイルは、信頼できる科学者としてフラマリオンの名前を何度もあげている。第3回では、彼の研究が創作の世界に、そして現代の文化にどのような影響を及ぼしたのかを探る。
This article is republished from New Lines Magazine.