コラム:侍ジャパンと原油高騰が示す円安の代償=佐々木融氏
[東京 10日] - 日本では長らく「円高は製造業や輸出企業に悪影響を及ぼす」という円安志向の根強い信仰がある。アベノミクス以降の対外直接投資の増加も、かつては「円高に耐えかねた企業の日本からの脱出」と捉える向きがあった。しかし、歴史的な超円安水準にある今なお、対外直接投資額は過去最高を更新し続けている。
一方、1月に出版した拙著「インフレ・円安・バラマキ・国富流出」で詳述した通り、通貨が圧倒的に強いスイスが国内生産を維持し、貿易黒字を拡大させている実態を見れば、「通貨安が輸出や自国経済に有利」という言説が必ずしも本質を突いていないことは明白だ。
自国通貨安とインフレによって帳簿上の企業収益や税収が増える現象は、トルコやアルゼンチンでも見られる共通項に過ぎない。日本の税収は米ドル建てでは近年減少傾向にある。我々が今直視すべきは、円安がもたらす「購買力の喪失」という冷酷な現実である。
その象徴的な事例が、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではないだろうか。侍ジャパンが快進撃を続ける裏側で、日本国内の放映権は米動画大手ネットフリックスが独占している。日本人が自国の代表を応援するために、米国企業へサービス料を支払わなければならない。60年ぶりの「天覧試合」すら米国企業を介さなければ視聴できないという現実は、購買力の低下と共に日本の「デジタル敗戦」を痛感させられる。
今回、ネットフリックスが日本国内の独占放映権獲得のために米国のWBCI(米国メジャーリーグとその選手会によって設立された団体)に支払った放映権料は1億ドル(約150億円)にのぼると言われている。2023年の前回大会の放映権料が約2300万ドルだったと推測されることを踏まえると、ドル建てで4倍強、円安の影響も含めた円建てでは約5倍(前回は約30億円)という驚異的な跳ね上がり方だ。
ここには2つの重要な論点がある。
第一に、放映権料が日本の放送局には手の届かない水準まで跳ね上がった背景には、円の購買力の著しい低下がある。米ドル/円相場の購買力平価が90円程度と推測される中、もし為替が正常な水準にあれば、1億ドルは90億円で済んでいたはずだ。150億円という日本の放送局にとって超えられなかった「壁」は通貨安を選択してきた結果なのだ。
第二に、ドル建て価格そのものが高騰した理由は、大谷翔平選手をはじめとする日本人選手の活躍により、日本国内での爆発的な視聴需要が見込めるからだ。米国では自国戦や決勝戦が地上波で放送されることを考えれば、ネットフリックスは「円は弱いが、日本のコンテンツ(選手)は強い」といういびつな構造に商機を見出したと言える。
このことは、日本経済にも重要な示唆を与えている。日本人選手が世界を引きつけるのは、海外の厳しい競争環境で研さんを積んだからという側面もある。これは力ある日本企業が海外へ進出し、現地で収益を稼ぎ出している姿と重なる。超円安というハードルを越えてなお対外直接投資が増え続けているのは、その証左だろう。
スポーツとビジネスで土俵こそ違えど、その構造はどちらも円を強くする方向には働かない。日本企業が海外で稼いだ収益は、国内に戻ることなく次の海外投資へと振り向けられる傾向が強い。また、日本人選手の活躍を見るためには、我々日本人は円を売ってドルを買わなければならなくなっている。円の購買力の低下は、日本企業や日本人アスリートのグローバルな成功が必ずしも国内の豊かさに直結しない構図を作ってしまっている。
さらに深刻なのは「海外への挑戦コスト」の増大だ。より高いレベルを求めて海外へ拠点を移そうと考える若い才能にとって、円安は深刻な経済的障壁となる。実際、日本人長期留学生の数はピーク時に比べ大幅に減少している。こうした状況は将来の国力低下に直結する可能性が高い。
国内に優れた才能があるスポーツ分野ですらこの状況なのだから、資源のほとんどを海外に依存するエネルギー分野における円安のダメージは、もはや恐怖を感じるレベルと言わざるを得ない。中東情勢の緊迫化による原油高と、記録的な円安の相乗効果により、昨日(9日)のアジア時間帯、一時的に「円建て原油価格」は史上最高値を更新した。「超円安下のエネルギー高」は、家計や企業に未曾有のコスト負担を強いることとなる。
かつて、地政学リスクの台頭は「有事の円買い」を誘発し、輸入物価の上昇を和らげる防波堤として機能していた。投資家が「有事」に取る行動はポジションの手仕舞いだ。安定時に積み上げられた低金利の円を用いたキャリートレードは、「有事」には巻き戻される。つまり円は買い戻される。そして、巨額の貿易黒字を抱えていた当時の日本では、上昇する円に不安を感じた輸出企業も慌てて円を買い、さらには機関投資家も外貨建て資産のヘッジに動いた。これが「有事の円買い」のメカニズムだった。
しかし、現在はこの構図が根本から変容している。日本が構造的な貿易赤字国へと転じ、直接投資などで実需の円売りが常態化した今、短期筋が円を買い戻すと、喜んで円を売る企業が多くなり、円高の動きを止めるようになった。この結果、リスク回避局面でも円買いの勢いは続かないこととなった。米国とイスラエルによるイラン攻撃開始で先行き不透明感が強まった過去6営業日で、原油価格は30%上昇している一方、円は主要通貨の中で下から3番目に弱い通貨となっている。
こうしたファンダメンタルズの変化は、以前のような防波堤を失うことによって、日本経済に原油高と円安という「ダブルパンチ」を突きつけるようになっている。中東情勢の悪化が、通貨安を通じて直接的にインフレ圧力を強め、貿易赤字を加速度的に拡大させる。「円」はもはや防波堤ではなく、有事の「悪影響を増幅させる装置」に変質してしまった。
「円安こそが経済成長のエンジンである」という幻想から、我々はいい加減に目を覚ますべきではないだろうか。通貨の価値とは、その国の購買力であり、国民が世界から富を享受するための「引換券」だ。エネルギー、デジタル、そしてエンターテインメントなど、あらゆる分野で「円」という引換券が効力を低下させていることを痛感させられている。今必要なのは、通貨の信頼を取り戻し、次世代が再び世界と対等に渡り合えるだけの「強い日本」を再構築するための構造改革ではないだろうか。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*佐々木融氏は、ふくおかフィナンシャルグループのチーフ・ストラテジスト。1992年上智大学卒業後、日本銀行入行。調査統計局、国際局為替課、ニューヨーク事務所などを経て、2003年4月にJPモルガン・チェース銀行に入行。2010年にマネージングディレクター就任、2015年から2023年11月まで同行市場調査本部長。23年12月から現職。著書に「弱い日本の強い円」、「ビッグマックと弱い円ができるまで」など。
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