三笠宮妃百合子さま「斂葬の儀」に愛子さまも黒のベールで参列 1年続く皇室の儀式 なぜ皇族は豊島岡墓地に葬られるのか?

本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」で、三笠宮妃百合子さまの祭壇に拝礼する喪主の彬子さま=2024年11月26日午前10時43分、東京都文京区の豊島岡墓地 この記事の写真をすべて見る

 101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さまの本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」が11月26日、東京都文京区の豊島岡墓地で営まれ、皇族方のほかに石破茂首相ら三権の長など各界から約500人が参列した。皇族の逝去に伴う一連の儀式については、一般には聞き慣れない名称や決まり事も少なくない。しかし、朝廷儀礼に詳しい専門家によると、中世から続く儀礼もあれば、明治以降に慣例化したものもあるという。

【写真】黒のベールが美しく光に透ける愛子さまと佳子さま

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 26日午前9時頃、百合子さまの柩を乗せた霊車は長い歳月を過ごした三笠宮邸を出発し、皇居の前では300人を超える宮内庁職員に見送られて、皇族専用の埋葬地である豊島岡墓地に到着した。

 宮内庁楽部による雅楽の葬送曲「竹林楽(ちくりんらく)」が奏でられる中、霊車は墓地内をゆっくりと進む。黒いベールで顔を覆った喪主の彬子さまに続き、皇族代表の高円宮妃久子さまと親族に伴われながら柩は葬場に安置された。

 午前10時からは、告別式にあたる「葬場の儀」が始まり、秋篠宮ご夫妻や天皇、皇后両陛下の長女の愛子さま秋篠宮家の次女の佳子さま、長男の悠仁さまら皇族方のほか、石破首相ら三権の長など約560人が参列。喪主の彬子さまはときおり、ハンカチで涙をぬぐわれる場面もあった。

 落合斎場で火葬されたご遺体は午後に墓地に戻り、夕方「墓所の儀」で故・三笠宮さまの墓に埋葬された。  

 本葬が営まれたのは、皇族の埋葬地として知られる豊島岡墓地。東京・文京区の護国寺に隣接する、皇族専用の墓地だ。

 しかし、宮内庁のウェブサイトによると、皇室の陵墓は近畿地方を中心に北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にあり、その数は460か所におよぶという。

 では、近代皇室における皇族の墓地が、なぜ豊島岡墓地になったのか。こうした決まり事の多くは明治、大正の時代にでき、皇室儀礼のよりどころとなっている。

 朝廷儀礼に詳しく、『中世天皇葬礼史』などの著書がある追手門学院大学の久水俊和准教授によると、1873(明治6)年に生まれてすぐに亡くなった明治天皇の長男である稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)と長女の稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)を、豊島岡墓地に埋葬したのが最初だ。明治期の宮内省に関係する公文書類をまとめた『帝室例規類纂』に、この長男と長女を埋葬した経緯が記載されているという。

 久水さんは、こう解説する。

「明治の皇室は京都から東京に移ったばかりで、天皇家の菩提寺である御寺(みてら)として知られた京都の泉涌寺(せんにゅうじ)のような菩提所がなかった。そこで、徳川将軍家の祈願寺である護国寺の境内に埋葬し、そこから皇族専用の埋葬地となったのでしょう」

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三笠宮妃百合子さまの通夜に参列する彬子さま。祭壇には、両陛下や上皇ご夫妻からの供物や皇族方から贈られた白い花が並ぶ=2024年11月24日午後5時59分、東京・元赤坂の三笠宮邸

 一般の本葬にあたるのが、26日に営まれた「斂葬の儀」だ。

 久水さんによると、「斂葬」は近代以降の名称で、「斂」は埋葬を、「葬」は告別のことを指すという。

「斂葬の儀」では、棺前に米や酒が供えられ、宮内庁楽部が雅楽で葬送曲を奏でる。

 本葬までには、一般の納棺にあたる儀式「お舟入(ふないり)」や、ご遺体に別れを告げる「拝訣(はいけつ)」、柩を通夜の部屋に移す「正寝移柩(せいしんいきゅう)の儀」、位牌にあたる「霊代(みたましろ)」を「権舎(ごんしゃ)」と呼ばれる邸内の部屋に安置する「霊代(れいだい)安置の儀」などの儀式が営まれる。

 しかし、天皇、皇后両陛下、そして上皇ご夫妻は弔問のみで参列はしない。「斂葬の儀」でも両陛下の側近が勅使、皇后宮使として拝礼し、上皇ご夫妻も使いを出した。

 儀式に参列しない理由は明文化されておらず、「まさに慣例です」と久水さん。

「しかし、中世でも公式には参列していないものの、天皇がひそかに父帝や妃である皇后など身内の葬儀を見守った事例も記録に残っています」  

 そして特徴的なのが、天皇や皇族が亡くなった際の一連の儀式の期間の長さだ。

「斂葬の儀」で百合子さまの祭壇へと向かう秋篠宮ご夫妻と愛子さま、佳子さま、悠仁さま=2024年11月26日午前9時31分、東京都文京区の豊島岡墓地

 当時天皇であった上皇さまは、2016年8月、退位の希望を国民へ向けて提起したビデオメッセージのなかで、そのことについても述べられている。

「天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2カ月にわたって続き、その後、喪儀に関連する行事が1年間続きます」

 皇族である百合子さまの場合は、天皇よりは短いものの、亡くなられた翌16日から一般の納棺にあたる「御舟入」や一連の儀式が営まれ、さらに26日には本葬の「斂葬の儀」と三笠宮家の墓に埋葬される「墓所の儀」など、一連の葬儀は1年後の「墓所一周年祭の儀」まで続く。

 上皇さまがメッセージで述べられた「殯」とは、古代においては「招魂」と「鎮魂」、そして「死の確認」の儀式だった、と久水さんは言う。

「まずは、生き返ることを願って亡くなった人の魂を歌舞などで呼び寄せる。それがかなわない場合は、霊魂を慰め、亡骸が朽ち果てていくさまと死を確認する。その間は米や酒を絶やさず供える。何段階もの儀式を経るため、どうしても安置する期間が必要になります」

 かつて皇室も、その一連の儀式ごとに亡骸に対面して、その身体が朽ちる様子を見届けていた。だが、平安時代に薄葬の風潮が強まると、「殯」の風習も消えていった。

 そして明治政府のもとで、古代国家で営まれていた葬送儀礼とともに「殯」も復活した。

 こうした現在の皇室儀礼の多くは明治から大正の時代に再構築され、慣習としていまも運用されているという。


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百合子さま
2024/11/27/ 11:00
三笠宮さまの「斂葬の儀」に参列した演歌歌手の石川さゆりさん(中央)=2016年、東京都文京区の豊島岡墓地

 そして、葬儀において故人の人柄がにじむのが、参列者の顔ぶれだ。

 2016年に逝去された三笠宮崇仁さまの「斂葬の儀」にあたっては、三笠宮さまのご研究仲間のほかに、演歌好きの三笠宮さまがファンと公言し、親しく交流を重ねてきた演歌歌手の石川さゆりさんの姿もあった。

 百合子さまは、大正から令和まで四つの時代を生き、皇族として80年という歳月を過ごされた。そのなかで夫の三笠宮さまを支え、5人のお子さまを育ててきた。また、「母子愛育会」の総裁として福祉の向上に取り組み、「民族衣裳文化普及協会」の名誉総裁として着物文化の継承にも力を尽くしてこられた。

 この日の斂葬の儀には、旭日重光章の受章者で、75歳の現役バレリーナとして知られる森下洋子さんも参列した。豊島岡墓地門の周辺には、拝礼のために並ぶ人びとが長い列をつくった。

 列に並んでいた都内で勤務する男性は「講演会でお世話になったので百合子さまにお礼を伝えたところ、数行ですが直筆のお手紙をいただいて驚きました」と、その人柄を偲んだ。

 穏やかで包み込むような優しい方――そんなお人柄を慕う人たちが、百合子さまを見送った。

(AERA dot.編集部・永井貴子)

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