コンビニの神様・鈴木敏文が最後まで手放さなかった…恵方巻の仕掛け人が業績の悪いエリアを転々とした理由

鈴木敏文氏の「最後の弟子」と呼ばれる男がいる。セブン‐イレブンの恵方巻を全国に広めた仕掛け人で、キャリアの大半を、業績の悪いエリアの立て直しにあたってきた野田靜真氏だ。広島、関西、西東京、アメリカと、常に「数字の悪いエリア」を任されながら、結果を出し続けた。その理由は何か。日米両国のセブン‐イレブンで副社長を務めた野田氏に、フリーライターの村尾信一氏が聞いた――。

写真=時事通信フォト

インタビューに答えるセブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文名誉顧問=2018年4月17日、東京都千代田区

発祥の地のアメリカでは創業99年、日本でも53年と、セブン‐イレブンには長い歴史がある。そんな日米双方で副社長(アメリカではExecutive Vice President=EVP)を務めた唯一無二の人物がいる。野田靜真氏がその人。小売業の常識を変えた企業の中枢で、長年にわたり主役であり続けた男だ。

セブン‐イレブンの副社長は、単なる名誉職ではない。明確な次期社長ポストである。それにもかかわらず、野田氏は昨年5月、ひっそりと椅子取りゲームの舞台を降りた。その事実に、筆者はある種の違和感を覚えた。

行動力、判断力、人望――リーダーに必要な要素を、野田氏はほぼすべて兼ね備えていた。現場を知り尽くした“最強の幹部”であり、故・鈴木敏文氏の“最後の弟子”と言われた人物である。であれば……なぜ社長にならなかったのか。いや、なれなかったのか。その問いは、野田氏の人生だけでなく、セブン‐イレブンという巨大組織の構造、さらには日本企業のリーダーシップのあり方にまで及ぶ。

撮影=プレジデントオンライン編集部

野田靜真氏。アメリカと日本両方で副社長を務めた。

セブン‐イレブンの歴史はすでに多くの媒体に取り上げられ、語り尽くされた感がある。だが、野田靜真というアングルから切り取れば、これまで見えなかった姿が浮かび上がるかもしれない。そんな想いに駆られたのが、この取材の出発点だ。

あらかじめ明かしておくと、筆者はセブン‐イレブン・ジャパンに30年間在籍した元社員である。同じゾーンマネジャーとして先輩の野田氏に羨望の眼差しを向け、僭越ながら、時に部下として支えたつもりだ。だが、あらためて一人の取材者として向き合うと、現役時代に触れてきた事実の一つひとつが、点と点から線へと繋がり、深く得心する。元部下ゆえ多少の身びいきはあるかもしれないが、ここでは野田氏のキャリアを辿りながら、元社員だからこその視点もあるはずと信じ、リーダーのあり方を問い直してみたい。

新日鉄を辞めてセブン‐イレブンへ

はじめに、セブン‐イレブン・ジャパン入社までの半生を簡単に振り返る。生まれは佐賀県伊万里市。少年時代は野球に明け暮れた。中学卒業後は高校野球の名門・PL学園へ。東京六大学野球への道を夢見たが、不運にも怪我で断念する。地元に戻り、福岡大学へ一般入試で進学した。

その後、地元ゆかりの新日鉄(現・日本製鉄)に就職。野球で培ったリーダーシップを買われ、労働組合青年局員に抜擢される。そこで、自分が組合幹部を経て左派系政治家になることを期待されていると知った。だが、それは野田氏の描く人生とは大きく異なっていた。それが26歳で転職を決意した理由である。

転職先に選んだセブン‐イレブン・ジャパンは、1986年当時、急成長の真っ只中。創業者・鈴木敏文氏(当時社長)はすでにカリスマとして君臨していた。分かりやすい言葉で方向性を示し、リーダーのあるべき姿を体現していた。鈴木社長に率いられたオペレーション・フィールドカウンセラー(OFC・経営指導員)に、野田氏はそこはかとない魅力を感じた。「OFCとはコンサルかな? 何となく面白そうだ」と思ったのが志望動機だった。


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「オーナーさんたちには“従業員全員参加型の経営”を実感してほしかったんです。そのためにはまず接客です。『いらっしゃいませ、今日はいい天気ですね』という挨拶も大事ですが、やっぱり商品を通じてお客様と会話してほしいじゃないですか。恵方巻は当時200円ほど。気軽におすすめできます。従業員が試食して、『これ美味しいですよ。こんなイベントがあるんですよ』とお客様に伝える。お客様は『知らなかったよ』と応えて会話が生まれます」

売り上げの低い広島地区のオーナーたちに成功体験を持ってほしい。それが野田氏が恵方巻にこだわった最大の理由の一つである。しかし、それだけではなく、マーケティング、オーナーの意識改革、従業員教育など、さまざまな要素を内包した取り組みだったということだ。関西の風習にすぎなかった恵方巻が、いまや全国で知らない人はいないほどに広がった。その背景に野田氏の熱い想いと実践があったことをあらためて強調しておきたい。

さらに実践の過程で経験したエピソードを聞かせてくれた。

撮影=プレジデントオンライン編集部

野田靜真氏。恵方巻を全国に広めた。

ライバル店に「一緒にやりませんか」

「当時、担当店の隣には回転寿司のチェーン店がありました。僕はそこの店長と仲が良かったんです。定期的に食べに行ったり、釣銭の貸し借りをしたり、お互いに助け合う関係でした。あるとき僕から切り出したんです。『セブン‐イレブンで恵方巻をやっているんだけど、本来はあなたのところがやるべきじゃないの?』と。回転寿司の店長は『そりゃそうだね!』と感心した様子でした」

後日、その店長は回転寿司チェーン本部の了解を得て、恵方巻を売ることになった。それだけでなく、野田氏は地域のフランチャイズチェーン協会の会合で、ローソン、ポプラといったコンビニ各社(ファミリーマートは当時未出店)の責任者に、『一緒にやりませんか』と声をかけた。

「それは面白い、やろう、やろう、と皆さん乗ってくれました。するとセブン‐イレブンだけでやっていたときには見向きもしなかった地元メディアが、急に取り上げ始めたんです」

評判は瞬く間に広島全域に広がった。セブン‐イレブン・ジャパン社内では、地域の成功事例は迅速に共有される。野田氏は幹部たちの前でケーススタディを発表して、恵方巻の取り組みは一気に全国へと広がった。


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セブン‐イレブンに入社して、トレーニングストア(直営店)での研修を終えた後、OFCとしての配属先は広島地区だった。当時の広島地区はまだ店舗数が少ないうえ売り上げも低い。野田氏は一瞬、「左遷されたのか……」と思ったそうだ。会社から自分はさほど期待されていない気がして、こう思ったという。

「広島地区の売り上げを伸ばして会社を見返したい」

それが野田氏にとっての最初のモチベーションだった。そんなとき偶然、担当店オーナーが大阪出身で「関西には恵方巻という風習がある」と聞かされた。きっかけは何でもよかった。売り上げを上げる起爆剤として「恵方巻を予約商材として取り組んでみよう」という話になった。

いまでこそ恵方巻は、全国のコンビニチェーンやスーパーがこぞって取り組む一大商材。関西の風習という域を超えて全国に定着している。だが、その起点が発祥の関西ではなく「広島地区の売り上げを上げたい」という、野田OFCの切実な思いからだったことは、あまり知られていない。もっとも、セブン‐イレブン・ジャパン社内では、仕掛け人である野田氏が挑んだ恵方巻物語は、長く語り草になったが。

「やってみたら、あっという間に完売」

野田氏はまず、怪訝な反応を示す製造工場(デイリーメーカー)に「切っていない巻き寿司を10本だけ納品してほしい」と頼み込んだ。広島では馴染みのない風習だったため、店頭ではPOPに恵方巻の由来や食べ方を書き込み、売場を丁寧に作り込んだ。そのときの状況を野田氏は興奮気味に語る。

「やってみたら、あっという間に完売したんです。たった1店の取り組みだったので、翌年は担当エリアの8店すべてで20本ずつ販売したらこれも完売。3年目にはディストリクトマネジャー(DM・地区責任者)が方針を出してくれて、地区80店で1店平均30本を販売しました。これも、やっぱり完売でした」

なぜ、こうも売れたのだろう……。野田氏に問うと、ある仮説があったことを教えてくれた。

「節分って、家庭では豆以外に何を食べているんだろう? 恵方巻は、豆と食べるにはちょうどよい量です。絶対にウケると思いました」

鈴木敏文社長(1992年に会長に就任)からは常々「お客様の立場で考えなさい」と教えられていた。これは野田氏が自身の生活シーンから消費者目線で閃いたアイデアだったのである。それだけではない。恵方巻の取り組みは、従業員教育にも有効だと考えた。


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もちろん、野田氏は恵方巻だけをやっていたのではない。その総合的なリーダーシップとマネジメント手腕が高く評価されていた。だから、広島、福山、山口の地区責任者(DM)を務め、次々と売り上げを改善していった。ゾーンマネジャー(ZM・ゾーン統括責任者)への昇格も、もはや誰も驚かなかった。当時の野田氏には活力が漲っており、やり遂げた仕事が正しく評価される組織を、あたかも楽しんでいるかのようだった。

野田氏はこう振り返る。

「僕はいつも数字の悪いエリアばかり任されます。もう慣れていましたね。でも、どこへ行こうが“政策は3つ以上出さない”と決めていました。若い頃から“ランチェスターの法則”を勉強して、『悪いときは一点突破しかない』と考えていたからです。一点突破して成功体験をつくり、自信を持たせてから他の施策へ広げていく。これが僕の常套手段でした」

中でも野田氏が西東京ゾーンを任された当時、エリアの加盟店は約1000店。全国15(当時)ゾーンの中でも特別だった。鈴木会長の自宅がある、まさにお膝元。鈴木会長がつねに眼を光らせ、店に立ち寄っては「機会ロスが多い。だから成績が悪いんだ」と“有難い”指導が飛んでくる。「地道に改善していきます」などと悠長なことは言っていられず、成績が悪いと鈴木氏は、すぐにゾーンマネジャーの首を挿げ替えた。野田氏はそうして前任者が外されたあとの後釜だったのである。

ところが、着任した翌月には、西東京ゾーンは売上前年比を全国最下位からなんと2位に浮上させた。まさに奇跡の改善だった。野田氏は「ツイていた」と謙遜するが、たしかな理由があったことを筆者は知っている。

野田氏の真骨頂は突破力である。ゾーンマネジャーになって間もない頃、鈴木会長からこっぴどく「ぶっ飛ばされた」ことがあった。それが、野田氏に突破力(鈴木イズム)を植え付ける契機になった。

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