12歳が見た「昭和100年」戦後80年、100年後の日本は「日本」のままですか プレイバック「昭和100年」
<昨年8月にスタートした「昭和『100年』あのとき 私は…」の「12歳が見た昭和シリーズ」は最終回です。前回「昭和20年」から続く80年後、現在の「令和7年」の物語です。過去に登場した「12歳」たちのその後や次の世代、その次の世代がいくつか描かれています>
日本とウクライナ
私は中学受験をするので夏休みも塾で勉強を頑張っている。社会の時事問題で、3年前にロシアがウクライナに一方的に攻め込んだウクライナ戦争を習った。遠くの話だと思っていたら、塾の先生は「日本でも同じようなことがあったのよ」と言って、大戦末期に当時のソ連が一方的に日本に攻め込み、多くの日本人がシベリアに抑留されたことを教えてくれた。
私は日本が中国や米国と戦争して原爆を落とされたことは知っていたが、ソ連とのことはほとんど知らなかった。インターネットで調べると、確かに57万人以上もの日本人がソ連に連れていかれ、北方領土などを占領されたことがわかった。ただ、40代の両親に聞くと、「習ったかもしれない」と言うだけで、大学受験は世界史や地理だったので日本史には詳しくないという。
1946年12月、シベリアからの帰還第1船「大久丸」の甲板にたたずみ、上陸を待ちわびる復員兵ら=京都・舞鶴港そこで今年67歳になる父方の祖父に聞くと、信じられないことを教えてくれた。祖父の祖父がシベリアのマガダンという場所に3年以上も抑留されていたというのだ。私から見れば高祖父と言うらしいが、大正元年生まれで、生きていれば今年113歳。冬は氷点下30度にもなるものすごい寒さの中で、奴隷のように森林の伐採作業などをさせられたという。
さらに驚いたのは、高祖父は終戦の日が過ぎた8月18日から、今の北方領土にあたる占守(しゅむしゅ)島というところでソ連と戦い、その後にシベリアに抑留されたというのだ。祖父も詳しいことは父親から聞いたそうだが、戦争が終わって、ようやく日本に帰れると思っていたところにソ連が攻め込んできて、しかも一度はソ連に勝ったという。
祖父はよく、父親から「おじいさんたちが戦っていなかったら、北方領土だけでなく北海道もソ連に占領されていた」と聞かされたそうだ。私には驚くことばかりで、あらためてネットで調べると、その話は本当のようだった。
関係者に見送られ帰国者を迎えに舞鶴港を出港する興安丸。シベリア抑留者の帰国が完了した=昭和31年私のルーツ
私はNHK番組の「ファミリーヒストリー」みたいだと思って、母方の祖母にも家族に戦争に行った人がいないか聞いてみた。すると、祖母の父、私にとってのひいおじいさんである曽祖父も長くシベリアのイルクーツクという場所に抑留されていたことを教えてくれたのだ。
関東大震災のあった大正12年の生まれで、生きていれば102歳。同じようにすごい寒さの中で働かされ、凍傷という病気で片足を切断した。全員が大正生まれの4人兄弟の末っ子で、全員が戦争に行き、三男だけが戦死した。曽祖父は帰国後、三男の残された奥さんと結婚して祖母が生まれたのだという。ということは、曽祖父が足を失ってまでシベリアから帰って来なかったら、私はこの世にいなかったことになる。
関東大震災で火の手が上がる有楽町。東京は焼け野原となったこんな大事なことを私は今まで全く知らなかった。ただ、両親の実家も、私が言うまでお互いの家族にシベリアにいた人がいることは知らなかったらしく、私はそのほうが驚いた。両親の結婚式の時、まだ80代だった曽祖父も出席して、孫娘の晴れ姿をうれしそうに見ていたそうだが、義足のことは悪いと思って、誰も聞かなかったみたいで、その後あまり話す機会もないまま亡くなったという。
生きて日本に帰る
マガダンとイルクーツクは5000㌔近くも離れていて、お互い面識はなかったはずだが、2人とも「こんな所でくたばってたまるか。絶対に生きて日本に帰ってやる」と毎日思いながら耐え続けたという。その言葉は、違う場所にいながらもまったく同じで、帰国した舞鶴港で日本の土を踏んだとき、地面に顔をこすりつけて、1時間以上泣いていた話も一緒だった。
あらためて調べると、シベリアに抑留された57万人のうち5万人以上が日本に帰れずに亡くなった。長い人は10年以上も抑留されていた。57万人とは今の鳥取県の人口より多いくらいだ。こんなひどい話が祖父たちより少し上の世代で起きていたのに今、テレビとかではほとんどやらない。
今年7月に天皇、皇后両陛下がモンゴルに抑留された日本人の慰霊碑を訪問されたり、嵐の二宮和也さんの映画もあったりしたらしいが、両親は株価やメジャーリーグの話ばかりしていてあまり関心がないし、私も知らなかったことが恥ずかしいというより、悲しかった。
メディアのインタビューに応じる自民党総裁の石破茂首相 =7月20日、東京・永田町の党本部(代表撮影)先日行われた参院議員選挙では自民党が敗れた。母は物価高に何もしてこなかった自民党は負けても仕方がないと言っていたが、私は政治家の人たちに「日本はこういう歴史のある国だから、こういう未来にしていく」ともっと大きな話をしてほしいと思った。家計や経済はもちろん大事だが、演説している人も両親より少し年上ぐらいの人たちが多かったので、あまり歴史とか知らないのかなとも思った。
国のために戦う
私が英語を教わっている大学院生のお姉さんにシベリアの話をすると、すごく興味を持って聞いてくれて、さらに驚くような話をしてくれた。お姉さんは父親が日本人、母親が米国人のハーフで、日本人の曽祖父は戦時中、特攻隊員として米国の戦艦に突撃して戦死し、逆に米国人の曽祖父は日米が激しく戦った硫黄島というところで戦死したというのだ。
お姉さんは、両国の時代背景を含めて詳しく説明してくれたが、ほとんどは母親から聞いたそうだ。そのお母さんは「米国では国のために戦った人は家族の誇りだ。子や孫に語り継がれるけど、日本は違うみたいだ。戦争に負けたからかもしれないが、誇りであることに変わりはない」と話してくれたという。
靖国神社に寄贈されたシベリア抑留日本人捕虜の文集『やぶれ傘』。抑留生活の苦労が手書きで綴られている=2010年私も本当にそうだと思った。でも、日本では「国のために戦った」なんて言うだけで、変なやつだと思われてしまう空気もあるので、家族の間でもあまり伝わらなかったのかもしれない。私はもっといろいろと調べようと思ったが、学校の先生に話しても、うちの両親よりも若くて、戦争とか歴史とか興味がなさそうだし、「戦争はよくないことよ」なんて適当に言われて終わりそうだと思った。
そこで、塾の塾長先生に相談した。60代のおばあちゃんで、ウクライナの授業もそうだったが、社会や歴史をいつも興味深く話してくれるからだ。先生はシベリア抑留の歴史をさらに詳しく教えてくれた後、「私の祖父は戦犯だったのよ」と言った。ハーフのお姉さんの話にも驚いたが、さらにすごい話だった。先生の祖父は、フィリピンのモンテンルパというところで8年間も牢屋(ろうや)に入れられていたという。
「戦犯」は私も少しは知っていたが、先生によると、東京裁判の「A級」以外に、「BC級」という5000人以上が裁判を受けて約1000人もの日本人が死刑になったという。もちろん本当に罪を犯した人もいたかもしれないが、「誰々がやった」という伝聞だけで、身に覚えのない罪をかぶった人も多かったという。
先生の夫の家の話も驚いた。夫は、この塾を全国規模に発展させた理事長だ。創立者であるお父さんは、生きていれば98歳になっていたそうだが、戦時中に陸軍幼年学校という当時の超エリート学校に入学、軍隊の偉い人になるはずだったが、その前に戦争は終わってしまった。敗戦のショックで立ち直れないほど苦しんだが、その後、日本の戦いがいかに無謀だったか、戦争を避ける方法は他になかったのかをずっと一人で考え続け、未来ある日本の子供たちのためにこの塾を始めたのだという。
こんな日本を望んで死んでいったのか
先生は今年が「昭和100年」にあたることも教えてくれた。昭和の初めは、まだ関東大震災の復興の時期で、国内の不況に加えて世界恐慌も直撃していた。資源のない日本は大陸の満州を頼ったが、これが遠因になって日中戦争が始まった。
日本にアジアで勢力を拡大されることを恐れた米英などの連合国は中国に味方し、日米開戦へとつながった。石油の輸入すら止められて追い込まれた日本は、戦う以外に残された道はもうなかったという。
戦争に負けた日本は建国以来、初めて外国人による統治を受けた。もう誰もが昔のような日本には戻れないと思ったのに、わずか20年ほどで世界中が驚くような復興を成し遂げた。しかし、平成の初めごろから再び日本は「失われた30年」などと言われて下降線をたどり、阪神大震災や東日本大震災などの災害にも見舞われながら、令和の今に至っている。
阪神淡路大震災、支柱がこなごなに崩れ横倒しになった阪神高速道路神戸線=1995年(本社ヘリから)この激動の歴史がわずか100年の間に起きた。私は12年しか生きていないが、つい最近までは曽祖父くらいまでの世代が生きていたのに、みんな何も関心がないし、少し昔のことなど忘れて、勝手に平和で豊かになったような顔をしている。
戦場で亡くなった人も、シベリアに連れていかれた人も、特攻した人も、戦犯になった人も、こんな日本を望んで死んでいったわけではない。原爆や空襲で亡くなった人も、こんな未来を望んで犠牲になったのではないと思う。もっと言えば、戦争から帰ってきて戦後の復興や高度成長を支えてきた人たちも今の日本を見たら、がっかりしてしまうような気がした。
歴史とは「家族の物語」
今年は「戦後80年」でもある。8月15日の終戦の日には、天皇陛下が追悼の言葉を述べられたが、この日が終われば、国民も私も、また忘れてしまうのだろうか。
日本はずっと少子化と言われていて、私も一人っ子だし、学校のクラスも少し上の学年は3クラスだったのに私たちは2クラスしかない。今年発表されたデータでは、昨年生まれた日本の子供の数は68万6000人で初めて70万人を割った。私の両親が生まれた40年前は、その2倍の140万人、祖父母のころは170万人くらいいたので比べようもない。
このまま少子化が進めば、100年後の日本の人口は今の3割程度というデータもあるというが、私はただ単に日本という土地に住んでいるだけの「日本人」なら、増えても減っても意味はないと思う。日本のことをあまり知らない外国人だって、どんどん増えているし、働く人が減るわけではない。でも、それはもう日本のようであって日本ではないと思う。
塾長先生は「それぞれの国には、それぞれの国の歴史という大きな物語がある。他国から見れば良いことも悪いこともあるかもしれないが、日本の歴史とは日本人の大きな物語なのだから楽しんで勉強してほしい」と言った。
今はその意味がすごくよくわかる。そして、こうも言っていた。「その物語は、一つ一つの家族がつくっているのよ」と。
私は、12歳で迎えた「昭和100年」の夏休みを忘れない。そして、日本人の物語と私の家族の物語を、子供や孫に伝えていきたいと思った。 (終わり)
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最終回の「令和7年」は、過去に登場した「12歳」たちのその後や次の世代、その次の世代がいくつか描かれています。
主人公の少女は前回「昭和20年」で戦地の父の帰りを待っていた少年のひ孫で、「昭和元、24、28、44、64年」で登場した「片足のないおじさん」のひ孫にもあたります。
「ハーフのお姉さん」は「昭和86(平成23)年」の主人公で、その父は「昭和62年」、祖父は「昭和29年」の12歳の少年として、曽祖父は「昭和12年」の少年の5つ年上の兄として描かれました。
さらに「塾長先生」は、「昭和46年」で祖父の戦犯時代を聞く少女で、その母親の12歳の出来事は「昭和21年」にあります。夫もまた、「昭和36年」に、その父は「昭和15年」のエリート少年として登場しました。「昭和100年」の間には市井の人々のさまざまな命と歴史が綿々とつながっています。