両親にもらった顔は12年―93歳被爆者が8.6に見た地獄、ケロイドの苦悩と生きる希望
広島は6日、米軍による原爆投下から81年の「原爆の日」を迎える。当時12歳で被爆した女性は一命こそ取り留めたが、顔にケロイドが残った。「私の顔はわずか12年」。暗く、苦しい時代を経て、原爆がもたらす惨禍を伝えるのが生かされた者の務めだと思い至った。93歳。今年、広島市の被爆体験証言者に加わった。
大橋和子さん=広島県廿日市(はつかいち)市=は当時、広島女子商業学校(現広島翔洋高)の1年生。広島市平塚町(現中区)で建物を取り壊し、空襲時の延焼を防ぐ作業中だった。
飛行機の音に気付いた同級生につられて、ふと空を見上げた。日差しを両腕で遮ると、強烈な閃光(せんこう)と轟音(ごうおん)が襲った。視界は闇に包まれた。爆心地から約1.5キロだった。
同級生は入学式の日、「友達になろう」と手を取ってくれた大切な存在だった。後に、投下翌日に亡くなったと聞いた。
迫る火から逃げ惑う中で、「助けて」と動けなくなった人に足首をつかまれたが、振り切った。首のない赤子を背負う母親の姿も。人間が目にしてはいけない地獄だった。
喉が渇き、至るところに転がる死体を踏んで水を求めた。「どんなに汚くてもいい」。水たまりの水を手ですくって飲もうと顔を近づけた。指先から皮膚が垂れ、水面に写る顔は腫れ上がって目鼻口が分からなかった。ショックで気を失った。
救護所だった陸軍被服支廠(ししょう)で叔父が捜し出してくれ、広島郊外の母の実家へ身を寄せた。やけどの治療といっても傷口に消毒液を塗る程度で、ガーゼの取り換えは毎回筆舌に尽くしがたい痛みだった。
年頃の娘の心情をおもんぱかってか、家の鏡はしまわれていた。翌年、顔のガーゼが取れ、母親に鏡をせがんだ。根負けした母が示した手鏡に映るケロイドの顔を見て絶望感に打ちひしがれた。
「見せちゃいけんかった。見せにゃよかった」
そう言って泣きながら抱きしめてくれた母の体の震えが忘れられない。
高校には別地域から進学した無傷の子も多かった。「髪を上げて、白い肌を堂々と…。私はできんから腹が立つんです」。友人と海で撮った写真には、赤いケロイドが写っていた。顔の左側部分を切り取って捨てた。
ケロイドが残る自身の顔を切った高校時代の写真(大橋和子さん提供)広島女子短大(現県立広島大)時代は学年で唯一の被爆者。文字通りうつむいて毎日を過ごした。聞いてくれれば話すのに、好奇な視線が刺さった。命を絶とうと考えたのも1度や2度ではなかった。ただ「将来1人でも食べていけるように」と短大へ行かせてくれた親には、悩みを明かせなかった。
夫、克己さん(平成7年に69歳で死去)との出会いが生きる希望に。弟の中高時代の担任で、家族ぐるみの付き合いだった。恋愛や結婚はあきらめていたが、21歳のとき思いがけず求婚された。
不安が先立つ。「私の顔を見ながら一生暮らせるの」。「大丈夫、信じて」。誰にも言えなかった苦しみを伝えると、涙を流して寄り添ってくれた。昭和29年に結婚、翌年には息子が生まれた。
原爆の記憶は長らく克己さん以外には明かさなかったが、平成26年、廿日市市内の現自宅で「語らいサロン」を始めたのが転機に。被爆体験に関心を持つ地域住民が多く、徐々に使命感も芽生えた。
被爆者は昨年初めて10万人を切った。平均年齢は86.66歳(今年3月現在)。被爆者なき時代はいずれ来る。ここ数年、腎臓がんや乳がんを患い、さすがに衰えを感じている。命ある限り、あの日の体験を、戦争がもたらす悲惨さを伝えるのが課された使命だと思っている。
「私が両親からもらった顔はわずか12年でした。皆さんとほぼ同じくらいの年でした」
広島市中区の広島平和記念資料館。大橋さんは自身の講話を聞きに来た子供らを前に決まってこう切り出す。遠い過去の話ではなく、自分ごととして考えてほしいから。
7月上旬には、散歩中に転倒。血圧が安定しない日も多い。「生かされていることに感謝しとります。生きていてよかったと思えばこそ、戦争だけはしてはいけない、と伝えないと」。8月6日、自宅で静かに手を合わせる。(矢田幸己)