元阪神・横田慎太郎選手「阪神の優勝が見たい」 家族が明かす今際まで語っていた意志と生きることへの執念〈映画「栄光のバックホーム」きょう放送〉

横田慎太郎さん。28年の人生を全力で生き抜いた。2021年7月、鹿児島県の平和リース球場で この記事の写真をすべて見る

 7日、2025年公開の大ヒット映画「栄光のバックホーム」(テレビ朝日系・よる10時)が初放送される。28歳で急逝した元阪神タイガース・横田慎太郎選手の“諦めない姿”と家族の絆を描く、奇跡の物語。横田選手の両親のインタビュー記事を再配信する(「AERA dot.」に2023年12月29日に掲載されたものの再配信です。本文中の年齢、肩書等は当時のもの)。

【写真】28年の濃密な人生を駆け抜けた横田慎太郎さん。ご両親がインタビューにこたえてくれた

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 今年7月18日、元阪神タイガースの選手・横田慎太郎が脳腫瘍で亡くなった。その2カ月後、阪神はセ・リーグ優勝。横田のユニホームも胴上げされた。常に全力でプレーする姿は、仲間だけでなく、多くのファンも魅了した。短くも、人一倍濃密に生き抜いた28年の人生を両親が語った。

 阪神タイガースのリーグ優勝が懸かった2023年9月14日の対巨人戦。18年間待ちわびた悲願とあって、甲子園球場をぎっしり埋めた観客は、歓喜の瞬間に心逸らせていた。

 4-2で迎えた9回表。絶対的守護神・岩崎優が登板。登場曲はいつもの「アイキャントライ」ではなく、ゆずの「栄光の架橋」だった。思いがけない曲に、涙を浮かべるファンもいれば、背番号「24」のユニホームを高々と掲げる観客もいた。「栄光の架橋」は、今年7月18日に28歳の若さで逝去した横田慎太郎の登場曲で、背番号24は彼のユニホームだった。

仲間と宙を舞った24番のユニホーム

 横田慎太郎の父・真之(60)と母・まなみ(62)は、鹿児島県日置市の自宅でテレビ中継を見ながら阪神の優勝の瞬間を待ちわびていた。不意に聞き慣れた曲が耳に飛び込み、感情が壊れた。まなみが言う。

「思いがけないことだったので、涙があふれて止まらなかった。慎太郎も一緒にグラウンドに立っているような気がして……」

「横田の思いを背負って投げた」と語った岩崎は1点差で抑え、リーグ優勝を引き寄せる。

 勝利の喜びを爆発させた選手らは、監督の岡田彰布を胴上げすると、次に24番のユニホームを持った岩崎を宙に舞わせた。その光景を見たまなみは、再び両手で顔を覆った。

「息子が胴上げされている。そんな錯覚に陥りました」

 ロッテや中日などで活躍した元プロ野球選手だった真之は、阪神と息子の幸せな関係をこれまでにも幾度となく見てきたが、また改めて思い知った。

「僕も野球界のことは知っているつもりですが、息子と阪神の関係は、単なる球団と選手の結びつきじゃないと思います。息子は本当にいい球団に入団した、って」


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ドラフトで指名され、仲間から胴上げで祝福される横田さん

 横田と阪神の幸せな関係がスタートしたのは13年のドラフト会議。甲子園に出場経験のない横田が阪神からドラフト2位で指名を受けた。

トレーニングのため毎朝5時に起床

 鹿児島県日置市で育った横田は、子どものころからプロ野球選手になると決めていた。父は、大学卒業後1年目からロッテでスタメンを張り、走攻守そろった選手として活躍。横田は父のプロ時代は知らないが、引退後にマスターズリーグでプレーする姿をバックネット裏にかじりつきながら見ていた。

 小学3年でソフトボールを始めると、保護者から「あれが横田の息子」とささやかれ、家に遊びに来た友人らが父のトロフィーに感嘆する姿を目にし、自分も同じ道に進みたいと考えた。そのころから朝5時に起床し、学校に行く前にランニングやストレッチを欠かしたことがなかったと母は言う。

「毎日です。雨が降っても台風でも関係ない。でもある時、雷が鳴っていたので、雷に打たれたら死ぬんだよ、と言ったら尻込みしていましたけど、小降りになると走りに行った。いったん決めたことは絶対にやり遂げていましたね」

「脳腫瘍だなんて…」父と母は絶句した

 高校は鹿児島の強豪・鹿児島実業に進学。だが、2年、3年と県大会決勝で敗退。実は父も高知県の明徳高校時代、県大会決勝で2度敗退している。

「僕ら親子は、つくづく甲子園に縁がないと思っていたけど、阪神から2位指名され、うれしさのあまり僕のほうが男泣き。実は僕、大の阪神ファンでしたから」

 阪神と横田父子には、浅からぬ縁がある。阪神ファンだった真之は中学時代に安芸キャンプに来た藤田平に指導を受けてプロを志し、阪神の炎のストッパー・藤川球児は中学時代に真之にグローブをもらって発奮、さらに慎太郎は藤川に影響を受けた。阪神愛はループし、時代を超え連鎖している。

 横田は入団直後から“ミスタータイガース”の掛布雅之に指導を受けた。身長187センチ、体重94キロと体躯に恵まれ、俊足で守備範囲も広い。球団は、走攻守そろった横田をチームの主軸に育てようと考えていたのだ。事実、掛布は当時のインタビューで「松井秀喜を超える」と断言している。


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掛布雅之2軍監督(当時)と横田選手

 期待の星は超が付くほど真面目で素直。掛布のアドバイスをスポンジのように吸収した。左利きの横田は右手首が弱かったため「箸やペンは右手で持つように」と言われると、ずっと右手で箸を動かした。遠征先のホテルでは掛布からマンツーマンの指導も受けている。

 横田は常に誰よりも早く練習を始め、誰よりも遅くバットを置いた。そんな横田を高く評価していたのが、16年から阪神の監督に就任した金本知憲だった。

 16年の開幕戦で、3年目の横田を2番センターとしてデビューさせた。だが、1軍の水は甘くはなく、30試合に出場したが5月にファームに逆戻り。父は、これからが息子のプロ野球人生の本番と考えていた。

「1軍の投手の厳しさを知ったのは大きい。実戦を踏んだ上で、ファームで再び鍛え直せば光が見えてくると」

 横田も来年こそと胸に秘め、人一倍汗を流していたが、秋口から頭痛に襲われるようになった。症状が顕著に出始めたのは、17年の春のキャンプ。打球が見えなくなってしまったのだ。

 病院に行くと医師にこう告げられた。

「脳腫瘍です。野球のことはいったん、忘れてください」

 横田はすぐに母に電話した。病院に勤務していた母は、病名を2度聞き返した。

「脳腫瘍だなんて……。頭が真っ白になってしまい、たまたま休みで家にいた主人に迎えに来てもらったのですが、車中ではずっと無言でした」

 母は、息子が子どものころからプロ選手になるためにどれだけ努力してきたか目の当たりにしている。一時も妥協しない真摯な練習はもちろん、ゴミを拾えばいいことがあるかもしれないと、ポケットいっぱいにして帰宅することもあった。日常生活のすべてをプロになることに捧げ、やっと道が開けたばかりだった。

 自宅に着くと、母は声を上げて泣いた。「どうした!」とせかす夫に震える声でやっと告げた。「慎太郎が脳腫瘍だって……」

 父も言葉を失った。

 2月、大阪大学付属病院に入院。16日に内視鏡手術を行い、3月30日に18時間に及ぶ開頭手術が行われた。視界が失われてしまったが、2カ月後に少しずつ回復。6月からは抗がん剤投与と放射線治療が始まった。付き添った母は、副作用で苦しむ息子を笑顔で励ましながら、「寮の虎風荘に帰すまでは一緒に闘う」と決めた。


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引退セレモニーで矢野監督から花束を贈られる横田さん

 土日に鹿児島から通っていた父は、ある日、髪の毛が抜けた息子と同じような丸刈りで現れる。父も一緒に闘っていると知った息子は、静かに涙した。

 球団の関係者の見舞いも横田を元気づけた。掛布は「お前は野球をしたいという目をしている」と励まし、金本は妻と娘が折った千羽鶴を渡し、多額の見舞金で入院費の援助もした。

 多くの人の支えを受け、育成選手としてグラウンドに戻った。だが右目が回復せず、2年後の19年9月に引退を決意。クライマックスシリーズ進出をかけた大事な時期だったが、引退試合には、監督の矢野燿大を始め、福留孝介、鳥谷敬、糸井嘉男ら1軍の主力も駆けつけた。横田の真っすぐな性格と愚直なまでに懸命な姿が、選手全員の心を捉えていたのだ。

 そもそも、1軍で38試合しか出場しなかった選手に球団が引退試合を用意するなどありえない。だが横田は、結果以上の恩恵を球団にもたらしていた。野球を愛し命を懸ける姿が、選手らのモチベーションを呼び起こしていたのだ。

 9月26日、ウエスタン・リーグの対ソフトバンク戦。8回表に横田の名前がコールされた。全速力で守備位置のセンターに向かった。1096日ぶりの公式試合である。

 グラウンドを振り返ると、芝生がまぶしいほどに輝いて見えた。すると、ライナー性のボールが横田を目掛けて飛んできた。ワンバウンドで捕球し、そのままバックホーム。キャッチャーのミットにすっぽり収まり、ランナーはアウト。横田はボールが見えなかったため感覚で捕球し、これまで投げたこともない遠投も成功させた。ベンチに戻ると、鳥谷が横田に言った。

「横田、野球の神様って、本当にいるんだな」

 この引退試合は「奇跡のバックホーム」と言われ、テレビドラマ化やドキュメンタリー番組、あるいは書籍化された。

 引退後、講演やYouTubeで活動し始めた20年9月、今度は脊髄に腫瘍が見つかった。再び大阪大学付属病院へ入院。1度目は再びユニホームを着るという強い目標があったが、2度目は苦しい抗がん剤治療を乗り越えるための目標が見いだせないでいた。だが、入院生活で他の患者の苦しみを目の当たりにし、彼らを励ます活動をすることを目標に定め、懸命に病魔を追いやった。

 しかし、退院から1年後の22年春、腫瘍は再び脳に発症。横田はこれ以上の抗がん剤治療は避けたいと母に告げた。

「自分の体が可哀想だと……。限りある命を、苦しんでいる人を助ける時間に充てたかったのだと思います。私たちは、息子の意思を尊重しました」

 横田は両親にこう語っていたという。


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インタビューに応じてくれた横田慎太郎さんの両親(撮影 写真映像部・松永卓也)

「苦しんでいる人の力になりたい。諦めなければ何かが起こることを伝えたい。何か小さな目標でも、それを一つひとつクリアしていけば希望が見えることを語っていきたい」

 処方薬を飲みながら、講演活動を続けた。講演先は病院や療養施設、あるいは学校だった。講演先には母が必ず付き添い、近県会場には父が車で送迎。家族で息子の夢を支えた。しかし秋口から、体が思うように動かせなくなり、会場の体育館の階段を這って上がった。母はそんな姿に耐えられなくなったこともある。

「もうやめようと言っても、今の自分の姿を見せることで、病気の人に“自分はまだましだから頑張ろう”と思ってもらえればいい、って。そして講演の最後には必ず“一緒に頑張りましょう”と声を振り絞っていました」

 講演依頼はすべて受けた。九州から北陸まで70カ所ほどこなしたが、年末になると息が上がるようになった。父は「もう厳しい」と判断し講演会をやめさせようとしたが、息子は引き受けたものは全うしたいと、以降はリモートに切り替えた。

 年明けに神戸の病院に入院。ベッドに横たわりながら、たどたどしい言葉で講演を全うした。

 鹿児島商業高校の野球部監督だった父は、3月末に辞職。息子と一緒に過ごす時間を選んだ。まなみは、夫は苦渋の決断をしたはずと語る。

「夫は無口な人なので逡巡している様子は見せませんでしたが、夫の夢は生徒を甲子園に連れていくことで、息子に負けないほど情熱を懸けていました。でも夫は、自分の人生より息子を選んだのだと思います」

「メソメソしていたら息子に叱られます」

 3月から横田の病室に一家4人がそろった。2歳上の姉は勤務先である東京のテレビ局から週3日、神戸に来た。そして4月、医師の勧めで入院先の近くにある緩和ケア施設に移った。家族全員が寝泊まりできる別荘のような環境だった。医師から「目は見えないが耳は聞こえている」と言われ、両親や姉は日々、阪神の試合を話題にし、些細なことで笑いあった。すると時々、低下した白血球が正常値を示すこともあったという。医師には「生きたいという魂がそうさせている」と告げられた。


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 意識が混濁してくると、阪神の仲間の名前をポツリポツリ口にしていたという。夢の中で、彼らと野球を楽しんでいたのかもしれないと両親は語る。

 5月中旬、父は鹿児島で会議があり、日帰りするつもりで息子に「じゃあ、行ってくるね」と告げると、見えないはずの目を見開き、子どものような声で「苦しい」と訴えた。しかしモニターはそんな数値ではない。父に自分の傍から離れて欲しくなかったのだ、と母が言う。

「夫はすぐに出張を取りやめ、息子の顔をさすったり、手を握ったりし、そんな優しい声を出せるんだと私がびっくりするほどの声で息子に接していました。息子も安心したのか、穏やかな表情をしていました」

 5月16日、医師から「長くて2週間、短くて1週間」という余命を宣告された。意識は薄れていたが、大事な知人たちが駆けつけると、しっかりと目を開け「ありがとう」とでもいうように首をわずかに上下させた。

 部屋には「栄光の架橋」が常に流れていた。ゆずからも「慎太郎、頑張れ!」のメッセージが届く。呼吸が苦しそうになると、父や母は一緒に息を吸いながら呼吸を整えてみせた。

 余命宣告から2カ月後の7月18日、横田は音がすーっと消えるように息を引き取った。その時、魂が去った息子から赤ちゃんの匂いがしたと母が言う。

「夫も娘も赤ちゃんの匂いがするって。生きるため魂の最後の一滴まで使い切ったからこそ無垢な赤子に戻り、あの世に帰って行ったのかもしれません」

 息子が人生を全うできたのは阪神に入団できたからこそ、と両親は口をそろえる。

 7月22日に行われた葬儀には、球団社長を始めOBやファンなど2千人が参列した。父は参列者の多さに驚いた。

「在籍6年で、しかもほとんどファーム暮らしだった息子のために、あんな大勢の方に参列していただけるとは」

 葬儀に参列したのは野球関係者ばかりではない。中学時代に横田から「頑張ろう!」と毎日声をかけられたという障害を持つ同級生の女性は、おかげで不登校にならずに済んだと頭を下げた。また、脳腫瘍の子どもを持つ女性は、横田に親子共に励まされてきたため、心の支えを失ったと涙にくれた。

 母は言う。

「親より先に死ぬのは親不孝だ、と言う人もいますが、私たちは慎太郎が闘病中、一言の泣き言も言わず最後まで闘った姿を見ていますから、親不孝だなんて思っていません。むしろ褒めてあげたい。いなくなったのは寂しいですけど、メソメソしていたら息子に叱られます。僕の生き方を見てなかったのか、って」

 横田は赤ちゃんの匂いを残し、目を閉じた。

 だが、姿は消えても横田と阪神の関係は終わらなかった。今際まで「阪神の優勝が見たい」と語っていた横田の意志は、選手らに宿った。阪神と横田の幸せな関係は、これからも続く。(文中敬称略)(スポーツジャーナリスト・吉井妙子)

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