[ラストストーリー]<1>競走馬 幸せな最期を…余生送る牧場に転換

 世の中には、始まりと同じ数だけ終わりがある。人はその時をどう迎え、 後(のち) にどう振り返るのか。年の初めにあえて、終わりを考える。より良い1年を過ごすヒントになると願って。

 白雪をまとった日高山脈の麓。北海道浦河町の「渡辺牧場」に午年の始まりが訪れた。

ナイスネイチャの子どもとふれあう渡辺さん(昨年12月7日、北海道浦河町で)=古厩正樹撮影

 経営者の渡辺はるみさん(58)が 厩舎(きゅうしゃ) に入ると、年老いた1頭の 牡馬(ぼば) が近寄ってきた。その茶色い瞳は、父馬の「ナイスネイチャ」によく似ている。有馬記念(GI)で3年連続3着という珍記録を打ち立て、「ブロンズ(銅メダル)コレクター」の異名をとった人気馬だった。

 生産をやめ、育成もせず、ただひたすら引退した競走馬を受け入れて最期をみとる――。渡辺牧場がそんな牧場になるのに、欠かせない存在でもあった。

 出会いは1988年の夏。まだ競走馬を生産していた渡辺牧場で、大学2年だった渡辺さんが住み込みのアルバイトとして働き始めた頃だ。ナイスは当時、生後3か月。体が弱く、おとなしい印象だった。

 その年の秋、馬との生活が恋しくなり休学して牧場に戻ると、ナイスはたくましく成長していた。草原を駆けるやんちゃぶりはボスの風格を漂わせた。

 競走馬は生産牧場で1年ほど過ごすと、人を乗せる訓練を受けるために「育成牧場」に移される。ナイスを送り出した直後、渡辺さんは牧場の代表の一馬さん(75)と結婚した。

 ナイスは90年のデビューから好成績を収め続けた。91年に初出走したG2レースの京都新聞杯には一家総出で駆けつけ、劇的な追い上げをみせた「我が子」の勝利に酔いしれた。小さな牧場は一躍有名になり、賞金が舞い込んだ。

 「育成牧場に送った他の子たちはどうしているのだろう?」。ナイスが名を上げるにつれて疑問がわいた。ある調教師に聞き、言葉を失った。「肉だよ肉。何かあったのかい?」

 全国で毎年生産される競走馬は約7000頭。だが、活躍するのはほんの一握りだ。人知れず姿を消し、引退して間もなく、あるいは乗馬クラブなどに引き取られた後、最終的に殺処分される馬が相当数いるという。そんな現実を知り、胸が締め付けられた。

 「余生はせめて穏やかに過ごさせたい」。手塩にかけて育てた馬の行方を探し始めた。調教師や乗馬クラブに電話をかけて回り、居場所のわかった5頭の引退馬を引き取った。そして、96年、ナイスが8歳で引退すると、馬主の厚意で譲ってもらった。

渡辺牧場で余生を送る生前のナイスネイチャ(手前)(2023年5月1日、北海道浦河町で)=渡辺さん提供

 家族らに囲まれ、古里で暮らすナイスたちは幸せそうだった。病気になった馬を懸命に看病すれば回復後にはより懐いてくれる。仲の良い馬が死んだとき悲しそうな表情を見せる馬もいる。馬にも感情があるとしみじみ感じた。

 生産牧場の看板を下ろし、みとり専門の牧場に転換したのは2011年。最期まで面倒を見られないのに繁殖させて送り出す葛藤に耐えきれなくなったからだ。

 1頭あたりの年間経費は100万円を超す。生産馬の売却収入を失った牧場の経営は苦しかった。

 支えてくれたのが全国の競馬ファンだ。ナイスの誕生日には大量のニンジンが届いた。取り組みへの賛同の輪も徐々に広がり、馬にかかる経費を募る会員制度を始めると200人を超す会員が集まった。馬主になって預託料を支払ってくれる人も現れた。

 23年5月30日。ナイスがついに立ち上がれなくなった。茶色の瞳が光を失っていく。35歳。人間なら100歳を超えていた。

 青空にそよ風が吹く心地よい日だった。ナイスが幼い頃に駆け回った草原の上で、獣医師が安楽死のため麻酔薬を注射した。「愛している。本当にありがとう」。ゆっくり目を閉じるナイスに渡辺さんは伝えた。

 他の牧場で生まれた引退馬も引き取り、みとった馬は60頭を超えた。今は16頭と暮らす。

 「競争に敗れた馬にも幸せな生活を送ってほしい。人間だってそう。『負けたら終わり』の社会っておかしいでしょう?」

 渡辺さんは、競走馬の最期に寄り添う意味をこう説く。別れは毎回、悲しみを伴う。でも最期まで見届けることができた幸せも感じる。これからも、「母」としての責任を果たし続けるつもりだ。(古賀章太郎)

[あとがき]渡辺はるみさん

 出会いがあれば別れも必ず訪れることを日々痛感しています。最期をどう迎えることができれば互いにとって幸せなのか、常に向き合うことが大事だと思います。後悔しないよう、思いやって愛情を注ぐことができれば、限りある時間が濃密なものになると信じています。

永遠ではないから尊い…歌人 俵万智さん

 人はときに始まりよりも終わりにひきつけられる。2人の歌人と歌手に、ラストを題材にした作品への思いを聞いた。

最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て

<最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て>

 2020年に出版した歌集「未来のサイズ」所収の一首です。きっかけは、16年に息子が全寮制の中高一貫校に進学し、離れて暮らし始めたことでした。

 家族のアルバム、赤ちゃんの頃に両手を万歳して寝る姿を詠んだ歌、絵本を読み聞かせている頃に書いたエッセー……。自宅で見返しているうちに、子育ての記憶が次々とよみがえりました。そしてふと思ったのです。「あれ? いつが最後だったんだろう」と。

 子育てって「初めて」はすごく意識するものです。でも、家族そろってご飯を食べるとか、子どもを追いかけて服を着せるとか、日常のささやかな出来事って知らぬ間に最後の瞬間が過ぎていくんですよね。

 それに気づいたとき、「もし最後だとわかっていたら、もっと大切に味わっていたんだろうな」という気持ちになりました。そして、最後かもしれないという気持ちで日々と向き合うことの大切さを感じました。

 読者の反応をうかがうと、子育て世代からは「本当にそうだ」と言われます。「今日が最後になるかもしれないと思うと、少し優しい気持ちになれた」と介護をしている方から言われたこともありました。人生そのものに当てはまる歌なのでしょうね。

 24年に父を亡くしました。直前まで仙台市の介護施設にいる父のそばを離れがたく、仕事のため東京に向かうか悩んでいました。そんな時、緩和ケアの先生が「お父様ならどちらを喜ぶか考えてみてはどうですか」と助言してくれました。

 父なら仕事を全うする私を喜んでくれると思いました。仕事を終え、戻ってくる途中に父は息を引き取りました。残念だったけど、覚悟を持って迎えた最期だったので後悔はありませんでした。

 何事にも終わりは訪れます。永遠ではないから尊いのだと思います。

 今年迎える最後の瞬間もきっとたくさんあるはずです。見逃さず、しっかり受け止め、味わい尽くしたい。年の初めにそう思うことが、この1年を大切に、丁寧に過ごすことにつながるのではないでしょうか。

終わる恋に人はひかれる…「最後の雨」を歌った 中西保志さん

 1992年にリリースした「最後の雨」は、激しい恋の終わりを歌った曲です。バブル絶頂の89年に関西から上京し、スーパーなどでアルバイトをしながら歌っていた僕にとって2枚目のシングル。半年近く宣伝のために全国のCDショップなどを回り、じわじわと人気が出て異例のロングヒットとなりました。

 ばかで惨めな青春時代を過ごしてきました。劇的な恋愛を繰り返してきたわけでなく、本来の自分と歌のイメージとのギャップに苦しんだ時期もあります。でも、歌い続け、年を重ねる中で、この歌の核心は、恋人に告げられた突然の別れを受け入れられず、あがき続ける欲や執着心みたいなものにあるという解釈にたどり着きました。

 物事に終わりがあるからこそ、人は感情をむき出しにしてあがく。それが大きなエネルギーを生むんです。うまくいっている恋より、終わってしまった恋の歌が人気なのは、そうしたものに人々がひきつけられるからではないでしょうか。

 歌は今も歌い継がれ、「 EXILE() 」のメンバーなどもカバーしてくれています。若い世代にも伝わるものがあると思うと、自分のやってきたことは無駄ではなかったと感じます。今年も1月からライブをやります。ばかでも格好悪くてもいい。欲や執着にまみれて、歌える限りは歌い続けるつもりです。

(聞き手・いずれも糸魚川千尋)

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