海底1キロまで掘った大炭鉱で爆発炎上…日曜劇場の舞台・軍艦島が「閉山のカウントダウン」を始めた決定的瞬間 「ごう音とともに火が燃え広がり10人が病院に担ぎ込まれた」
軍艦島こと端島の最盛期を描く「海に眠るダイヤモンド」(TBS系)で、三菱鉱業端島炭鉱の閉山の発端となった炭鉱事故が描かれる。この事故について残された史料を調べたライターの村瀬まりもさんは「1964年のお盆休み明けに、炭鉱内で自然発火が起き、ごう音とともに爆発的火災になって10人がヤケドで重症を負い、死亡者も出たと記録されている」という――。
写真=共同通信社
軍艦島と呼ばれる長崎市の端島
【玲央(神木隆之介)】「(閉山時の記念写真の中で)鉄平、どこにいるの?」 【いづみ(宮本信子)】「この写真にはいない。私も知らないの。彼が……鉄平がどうなったのか」
日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」(TBS系)の第6話では、今後の衝撃的な展開が予告された。1950~60年代に長崎県の軍艦島こと端島はしまで炭鉱会社の職員として働いていた主人公・鉄平(神木隆之介)が、1974年に端島炭鉱が閉山され、住民が一斉に離島したときには、そこにいなかったというのだ。
そして、12月8日放送の第7話では、1964年、実際に端島で起こった炭鉱事故をベースに、事故によって犠牲者が出た様子を描くようだ。事故に巻き込まれてしまうのは、鉄平か、それともリナ(池田エライザ)との間に子どもが生まれたばかりの兄・進平(斎藤工)なのか……。
端島の海底炭鉱は、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の所有。明治期から三菱の財力と技術力を結集して作り上げた地底の大工場だったが、採れる石炭が良質ゆえに自然に発生するガスの量が多く、1956年にもガス突出により3人の死者が出ている。
【参考記事】「日曜劇場の舞台・軍艦島の炭鉱でガス事故発生…気温35度湿度95%の海底坑道に入ると8時間出てこられない過酷」
「自然発火し、懸命の消火にもかかわらず再度にわたるガス燃焼」
1964年に起こった重大インシデントについて、閉山後に編まれた『三菱鉱業社史』にはこうある。
昭和39年8月17日端島破中卸九片で自然発火が発生した。懸命の消火作業にもかかわらず、17、19の両日の再度にわたるガス燃焼もあって、やむなく消火のため八片以深の稼行区域全部の水没に踏切った結果、出炭ストップという重大事態に立至った。もともと八片以深は海面下940mで地熱も高く、自然発火のおそれが多かったところであったし、また22~23t(トン)という低能率が問題となっていたので、この機会に思い切って水没箇所は放棄し、前記の三ツ瀬区域(編集部註:同じ端島内にある)の開発に全力を挙げることになった。そして三ツ瀬工事完了まで約1年2か月の出炭の空白を余儀なくされた。なお水没箇所に対しては、関係当局の指導と援助を得て閉山交付金が交付された。
事故発生時の報道では、全国紙より地元の長崎新聞が詳しい。事故当日の1964年8月17日の夕刊で、「坑内でガス燃焼 西彼端島 10人が軽いやけど」といち早く報じている。
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前年の1963年には戦後最悪と言われる福岡の「三井三池炭鉱大爆発事故」が起きていた。犠牲者の数はなんと458人。
この事故は人災の要素が大きく、10両編成の鉱車の連結器が切れて坑内を暴走。堆積していた炭じんによって火花が引火、大爆発を起こしたという。救出され、かろうじて一命を取り留めた839人も一酸化炭素中毒で、歩行や会話が困難になる、記憶力が低下するなどの高次脳機能障害を負った。もちろん、経営する三井鉱山は、この事故で大損害を負うことになった。
そんな大事故のニュースは、当然、端島の炭鉱夫もみな知っていて、同じような事故が起こることを恐れていただろう。WEBサイト「軍艦島デジタルミュージアム」には、元島民による証言が掲載されている。
端島の炭鉱夫だった父親は、8月17日当日、坑内に入って採炭作業することになっていたが、なぜか胸騒ぎがして出勤したくなくなり、親しい友人に交代してもらったところ、事故が発生。その友人は事故でケガを負ってしまい、父親は罪悪感を抱えることになったという。
軍艦島ナビゲーター・木下稔氏による「事故のトラウマ」
辰雄(沢村一樹)のモデルか、松倉慶次炭鉱長は水没を決断
端島の事故では19日の夜にも再びガス燃焼事故が起こり、作業中の坑内夫8人がヤケドをした。くすぶりつづける火を消すため、土のうで坑道の密閉していたところで、また突然ガスが燃焼したのだ。ヤケドをした8人はすぐに救護隊員によって病院に担ぎ込まれた。
「海に眠るダイヤモンド」の辰雄(沢村一樹)のモデルとも思われる松倉慶次炭鉱長は、1940年に東京大学工学部を卒業し三菱に入った技術力のあるトップだったようだが、『三菱鉱業社史』が記録するように、消しても消しても続く火災にお手上げ、為す術がなかったのだろう。
長崎新聞にも「同鉱は安全目標に“自然発火”の防止をかかげ、この3年間一度もこのような事故を起こしてはおらず、この日消火作業に当たっていた稲池さんらは坑内保安技術のベテラン。ガス発生の観測も怠らなかったと思われるだけに、関係者も事故の原因に首をかしげている。」(1964年8月18日付朝刊)。