現地部族2000人を組織化し「目と耳」に…!? インパール作戦で日本軍を極限まで追い詰めた英印軍にいた“女神と崇められていた人物”とは
太平洋戦争で最も無謀とも言われる「インパール作戦」。敗走する日本軍を苦しめたのは、イギリス軍が築いた情報網と密林でのゲリラ戦だった。彼らは地元の部族を組織化して「Vフォース」を創設したほか、現地に詳しい学者や行政官を総動員。なかには“女神”と称えられた20代の女性人類学者自らが隊長となり、部族を率いた例もあった。ここでは、英印軍の知られざる現地工作の裏側を、笠井亮平氏の著書『完全版 インパールの戦い』(文春新書)より抜粋して紹介する。
コヒマの風景 筆者撮影◆◆◆
地元の部族を組織化した「Vフォース」
さらに、英印軍は日本軍の動きを探るための情報ネットワークを築こうと、国境地域に住む部族の組織化にも乗り出した。
この案を提唱したのはインド軍総司令官のウェーヴェルだった。彼は日本軍のインド北東部進攻に備え、山間の国境地域でゲリラ戦を展開できる部隊を創設することにした。トリプラ藩王国やベンガルのチッタゴン、チン丘陵やナガ丘陵などから部族民2000人を採用し、約200人に対して1人の割合でイギリス人士官を配置するというのが当初の計画だった。さらに採用の余地があれば、1万人規模に拡大することも視野に入れていた(Kirby, The War against Japan, Vol. II, p.192)。ビルマ戦で手痛い敗北を喫し、その後も反攻を焦った結果、第一次アラカン作戦で勝利を逃すなどマイナス面が目立つウェーヴェルだが、将来への重要な布石を打っていた点は評価されるべきだろう。
この結果誕生したのが、「Vフォース」と呼ばれる部隊だった。1942年4月にはすでに部隊の構築や兵員の訓練が始まっていたという。アッサム・ライフルズというアッサム州傘下の準軍部隊から、山岳戦に強いことで知られる精強なグルカ兵が派遣されて中核をなし、そこに各部族からの要員が加わるという形がとられた。Vフォースはトリプラ、アイザウル(現在のインド・ミゾラム州の州都)、チン丘陵、インパール、コヒマ、レド、アラカンの七地域に分かれ、各地で日本軍に関する情報収集や偵察活動を展開することになった。また、英印軍と地元住民との橋渡し役、そして勝手知ったる密林のなかでの荷物運搬や案内役を担った(Kirby, The War against Japan, Vol. II, p.192)。英印軍にとってVフォースは、彼らの目となり耳となったのである。
英印軍が組織化したのはVフォースだけではなかった。ビルマ側の辺境地域で部族民主体の既存部隊があったほか、新設したケースもあった。きっかけは日本軍の進攻直前、ビルマ辺境地域の統治に当たっていたH・N・C・スティーヴンソンがドーマン=スミス総督に対し「イギリスが撤退する事態になっても、現地語を解するインテリジェンス・オフィサーのネットワークを残しておくべきだ」と進言したことだった(Adam Kuper, “An Interview with Edmund Leach”)。
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チン丘陵には「チンフォース(Chin Force)」や「チン丘陵大隊(Chin Hills Battalion)」があり、チン族(ゾ族)が動員されていた。さらに「チン部隊(Chin Levies)」も加わった。隣接するルシャイ丘陵でも「ルシャイ部隊(Lushai Levies)」が作られた。こうした部隊は「クラスA」と「クラスB」に分けられ、前者は居住地域を越えた攻撃的な作戦に従事し、後者は居住地域内での活動に従事することになった。とくに期待されたのはチン丘陵につながる二つの小道を守ることで、そのうちのひとつには英印軍の物資倉庫が置かれている重要拠点だった。
このように、英印軍はチンとルシャイで部族との連携を深めていったが、現地住民側にも協力するに当たっての思惑があった。各部族の長は、土地所有を今後も政府が認めることや自動車道の整備、提供された武器を戦後も継続保有すること等を求めていたのだった。こうした要求のすべてが受け入れられたわけではなかったようだが、死傷者に対する補償を盛り込むなど地元政府とのあいだで妥協が図られたという(Pum Khan Pau, “Behind the enemy line”)。
「対応可能な規模をはるかに超える応募があった」
ビルマ北部のカチン地域では、「北カチン部隊(Northern Kachin Levies)」が作られた。カチンは東側を中国の雲南省、西側をインド北東部と接している。インドのレドと昆明を結ぶ援蒋ルートは、まさにこのカチンを横断していた。スティルウェル率いる中国遠征軍が雲南方面からビルマに進撃する際にもこの地を通ることになる。連合軍にとっては一時的に撤退するにしても、何らかの形で足がかりを残しておきたい地域だったのだ。
日本軍は1942年5月の時点でカチン州の中心都市ミートキーナ(ミッチーナー)周辺は占領していたものの、さらに北方の地域まではカバーしていなかった。こうしたなか、8月にギャンブルという名の中佐が雲南との国境に近い英軍拠点フォート・ハーツに入った。彼の任務は部族部隊を構築することだった。ギャンブルは空輸による食糧補給を受けながら北カチン部隊の構築活動を進め、11月までに500人のカチン族ゲリラを集めることに成功した。
これでも食糧や装備上の制約から人数を抑えたほうで、「対応可能な規模をはるかに超える応募があった」という(Ian Fellowes-Gordon, Amiable Assassins, p.15)。
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英印軍は国境地域を専門とする学者や現地事情に詳しい行政官も総動員した。彼らに課した任務は、単なる調査だけにとどまらず、地元住民からなる部隊の構築や指揮にまで及んだ。
なかでも際だった存在感を示したのが、イングランド出身の人類学者アーシュラ・グラハム・バウワーだ。当時20代後半の彼女は、アッサム州北カチャールのゼミ・ナガ族地域でフィールドワークをしており、地元の敬慕を集める存在だった。自著『ナガの道』には、拠点とは別の村を訪ねた際、住民から大変な歓待を受け、「おお母よ! おお女王よ、おお女神よ!」と称えられたというエピソードが記されている(Ursula Graham Bower, Naga Path, p.57)。バウワーが現地入りしたのは、民族運動を展開していたナガ族の女性指導者、ラニ・ガイディンリウがインド当局に収監されて間もないタイミングだった。そのため、彼女はガイディンリウの「化身」と見なされもした。
アーシュラ・グラハム・バウワーそんなバウワーに英印軍が目をつけないわけがなかった。現地住民との信頼関係を買われ、Vフォースにリクルートされたのだった。この要請を受け入れた彼女は、北カチャールの拠点村、ハングラムで隊員募集をはじめた。しかし、村人からは「なぜサーヒブたち〔ここではバウワーらイギリス人を意味する〕のために戦わなくてはいけないのか」「罠にちがいない」などと疑問の声が上がった。このときは通訳兼補佐役のナムキアというナガ族男性が、対立するアンガミ・ナガ支族から自分たちを守ってくれたのはイギリス人ではないか、道路や塩市場を作ってくれたのはイギリス人ではないか、と反論してくれた。バウワーも「みなさんを連れ去ることなどしません」と必死の説得を行い、最終的に村人から受け入れてもらうことができた(Bower, Naga Path, pp.186-189)。部隊の隊長は彼女自身が務めた。
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バウワーの活躍を調べるなかで筆者が思い浮かべたのは、社会人類学者の中根千枝だった。『タテ社会の人間関係』があまりに有名な中根だが、1950年代にはインドでフィールドワークをしており、北東部にも滞在して調査を行っていた。インパールの戦いから9年後の53年にはナガ族の村々を訪ね、古老や若者から当時の体験を聞き取っている。そのときに訪問先で夕食を振る舞われたときの様子を、彼女はこう記している。
「心をこめた晩餐が、私の前に並べられると、この家の息子の嫁が、日本兵はお箸で食べていたから、あなたもお箸が要るんでしょう、日本軍のを記念にとっておきましたからと、娘に台所で箸を探させた。探し出てきたのを見ると、男子用の箸箱である。この人はここで最期を遂げたのだろうか、こんな日本の箸箱を、思いもよらぬこのジャングルの奥深く発見するとはと、無量の感慨をこめてあけると、箸は一本しか入っていない。一本では食べられないんです、と云うと、息子はさっそく竹を切ってきてあとの一本を作ってくれた。この地方は激戦のあった地だから日本人が行ったら殺されると聞いていたが、こうした優しい人々の親切に胸が熱くなるのだった。お隣の家では、日本の飯盒を今も重宝して使っているという」(中根千枝『未開の顔・文明の顔』pp.64-65)
現地での滞在期間こそ異なるものの、中根もバウワーもナガ丘陵を訪れたのはいずれも20代後半で、ナガ族の人びとと信頼関係を築いていったことは共通性を感じさせる。仮に中根が戦前にナガ族の研究をする立場だったとしたら、日本軍から協力を求められていたかもしれない。時期も状況も違うし、個人の思いもあろうが、彼女がどう対応していただろうかと想像せずにはいられない。
なお、当時ナガ丘陵では、クリストフ・フォン・フューラー=ハイメンドルフという人類学者も活動していた。彼の著書『裸のナガ族(The Naked Nagas)』は、バウワーの『ナガの道』と並び、現在でもナガ族研究の必読書のひとつになっている。ただ、彼の場合、オーストリア人ということがネックになった。オーストリアは1938年にナチス・ドイツに併合されていたため、学者とはいえ枢軸国側の人間と見なされたのである。彼は一時期南インドのハイデラバードで軟禁生活を余儀なくされたが、その後、イギリス植民地政府のもとで行政官の職を得て、北東辺境管区(略称はNEFA。現在のアルナーチャル・プラデーシュ州)で勤務した。
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カチンでは「北カチン部隊」が創設されたことは先に記したが、ここでも重要な役割を担った学者がいた。人類学が専門のエドマンド・リーチである。人類学を学ぶ者なら知らない者はいないほどの泰斗だ。『高地ビルマの政治体系』をはじめ、『レヴィ=ストロース』や『社会人類学案内』など戦後に多くの著作を残している。
リーチはカチンの村に長期滞在してフィールドワークに取り組みながら、1940年秋からはビルマ陸軍士官も兼務していた(エドマンド・R・リーチ『高地ビルマの政治体系』p.358)。日本軍のビルマ進攻が始まると、帯同していた妻と幼い娘をインドに避難させ、彼自身はいったん昆明に逃れた。しかし過酷な移動のなかで赤痢にかかってしまい、カルカッタで療養生活を余儀なくされる。42年8月にカチンに戻ろうとした際、立ち寄ったアッサム州内の飛行場で前出のH・N・C・スティーヴンソンと偶然対面することになり、「きみには明日フォート・ハーツに行ってもらうことにしよう」と告げられた。すでに現地入りしていたギャンブル中佐とともに、北カチン部隊創設に取り組むことになったのだ(しかし、両者の折り合いは悪く、犬猿の仲だったらしい)(Kuper, “An Interview with Edmund Leach”)。
一連の組織活動で彼はカチン各地を訪ねてまわり、「直接足を踏み入れたことのない主要地区といえば、フコーン〔フーコン〕河谷とヒスイ鉱地域を残すのみとなった」という(リーチ『高地ビルマの政治体系』p.359)。軍の意図を理解し、かつ現地語で住民と接触できるリーチは得がたい存在だったにちがいない。
部族長や長老、村民と密接な関係を築いていた人物
実務家が部族部隊を率いたケースもあった。チン丘陵で「チン部隊」が創設された際、これを主導し、自ら部隊長となったのがノーマン・ケリーというイギリス人行政官だった。ケリーはビルマ政府の官僚として東部ワ州や国境画定委員会での勤務を経て、1939年からティディムに駐在していた(Desmond Kelly, “Kelly’s Burma Campaign”)。ケリーは北チン丘陵地区の副行政監督官として、管轄区域内の部族長や長老、村民と密接な関係を築いていた。チン族は英印軍から協力を求められた際、自分たちの思惑があったことは前述したとおりだ。だとしても、ケリーのような存在があったことで──実際、彼は部族長らに直談判して協力を求めていた──合意に達したのである。
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