死去の岸本周平氏は国民・玉木氏の元祖「番頭」 1%政党の浮上に奔走「サバイブさせる」

和歌山県知事時代の岸本周平氏=令和5年10月

意識不明の重体で病院に搬送された和歌山県の岸本周平知事(68)が15日、死去した。旧大蔵省時代は「スーパー官僚」と称される切れ者で、国会議員時代には衆院当選同期の玉木雄一郎氏(国民民主党代表)の「番頭」を自任。旧国民民主党の政党支持率が1%に満たない中、党勢の拡大に奔走し、政権批判一辺倒の野党像の脱却に腐心していた。

「私と一緒に爆発を」

「銀座で一箱1万円のミカンを作っている皆さんは日本一じゃないですか。歴史もそう。世界遺産もそう。いっぱい日本一がある」

岸本氏は令和4年12月の県知事選でこう呼び掛けた上で、「私自身が爆発します。私と一緒に爆発して和歌山を素晴らしい場所にしようじゃないか」と聴衆に奮起を促した。

岸本氏は平成21年~令和4年9月に衆院議員を務めた。「政策は15年止まっている」と冗談めかすほど選挙活動に力を入れ、周囲には「脳みそが筋肉になるほど街頭に立った」と豪語する。野党議員ながら自民党重鎮の二階俊博元幹事長とも良好なパイプを築いた。

「穏健保守」自任

政治信条は「穏健保守」。スキャンダル追及が目立った当時の民進党執行部に不信感も漏らし、平成29年7月の東京都議選で大敗すると、党改革を求める申し入れ書を1人で当時の野田佳彦幹事長に手渡したこともあった。

民進党執行部に党改革の提言を申し入れ後、取材に応じる民進党の岸本周平衆院議員(当時)=平成29年7月6日

次代のリーダーには財務省後輩の玉木氏を期待していた。玉木氏を囲んで、21年初当選の同期を中心に懇談を重ねて結束を深めた。

旧希望の党を経て30年5月に旧国民民主党を結党した直後、周囲に「うちは玉木と泉健太(当時は同党所属)しかいない。競わせて育てていく。ただ、番頭としては玉木を無投票で当選させたいね」と漏らし、同年8月の党代表選で玉木氏の満場一致での選出を願った。

「八方ふさがりだ」「わが党は消滅する」

ただ、旧国民民主が掲げた「対決より解決」の路線は当初、支持を広げられなかった。現在の国民民主党の支持率は10%を超えるが、当時は1%前後に低迷していた。

「参院選でいかに党がサバイブするかだが、八方ふさがりだ。打つ手がない」「今は生き残るためにはなんでもやらないといけない。現有議席を減らしたらわが党は消滅する。スキャンダルでもいいから目立たないと(笑)」

岸本氏も数年間、「政策提案型」の国民民主のスタンスにこだわる一方、周囲にこう危機感を漏らしていた。

知事として古巣に苦言も

岸本氏は和歌山県知事選転身を志し、令和4年5月に国民民主党を離党する。

同党はその後、6年10月の衆院選で議席を4倍に増やすなど躍進を果たす。岸本氏は知事として、「年収103万円の壁」の引き上げを主張する古巣について「財源も提案するのが責任政党のあるべき姿だ」と苦言を呈することもあった。

疲れていても、ウイットに富んだ語り口で周囲を和ませようとする人だった。

「元気じゃないよ(笑)。こんな小さな政党で。選対で地方回って、委員会にも全部出て…」

3年3月頃、選対委員長を務める岸本氏はこう苦笑いを周囲に浮かべた。少数政党として割り当てられる仕事量の多さを嘆いた形だったが、「どこか健康的な雰囲気」を記者に指摘されると、当時の立憲民主党のスタンスについて「また、反対ありきになっているよね」と述べるなど、国民民主の居心地の良さをアピールしていた。

玉木氏「もっと躍進した姿見せたかった」

玉木氏は15日の記者会見で、死去した岸本氏について「多くの人に愛された政治家だった。名実ともに私の後見人、盟友として一緒に政治活動をしてきた」と振り返り、「岸本さんがいなければ、いまの国民民主党はない。もっともっと躍進した国民民主党の姿を見てもらいたかった」と唇をかんだ。(奥原慎平)

岸本知事の死因は敗血症性ショック

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