一片の「理」なし、森下翔太の抗議|広尾晃「野球のことを中心に、そのほかの話題も」
ビデオ判定の意味するもの
ではなぜ「ビデオ判定」が、導入されたのか?近年はプロ野球の公式戦はすべて映像で記録される。カメラは一台ではなく球場内に数台設置され、多くの角度からプレーを追いかける。そして前述のとおり技術の進化によって選手のプレーが高精細の画像で記録される。そうなっても、審判の判断が「最終」であるのは変わらない。本来的に言えば映像で「セーフ」に見えても、審判が「セーフ」と言わなければ、セーフにはならない。しかし、映像と審判のジャッジが異なるように見えては、審判の信頼性が棄損されることにつながりかねない。そもそも審判は「無謬」ではない。多くのジャッジをする中で、判断ミスをすることも当然ある。そこで機構は映像機器を積極的に取り入れて、疑惑のある判定については監督のクレームを受け付けて「ビデオ判定」をすることになったのだ。しかし、そうであっても最終のジャッジをするのは「審判部」であり、監督や選手ではない。また1試合の「ビデオ判定」の回数が決められているのは「審判のジャッジが映像と異なって見えるケースは極めて少ない」という前提に立っているからだ。実際に審判のミスジャッジは極めてレアだ。レベルの低いファンは、審判をバカにして「ストライクかボールかくらい、俺の方が、あいつらよりもよくわかる」とかいうが、スポーツの本質を知らない愚かな発言だ。
抗議は不利な判定をされたから
森下の抗議は「正しいジャッジがされなかった」ことに対するものではない。「自分が不利になる判定をされた」ことへの抗議だ。仮に「ストライクだと思った投球が、ボールとジャッジされた」時には、森下は抗議したりしないはずだ。フェアで紳士的な態度で臨むべきスポーツで、こうした態度は「恥ずべき」ものだといえる。退場を宣せられベンチに戻ってなおも審判をにらみつけるのその顔は「スポーツマン」のものではなく「やくざ、ゴロツキ」のものだったといってよい。少なくとも子供の手本にはならない。ベテランの評論家の中には「森下は審判との付き合い方を学ぶべき」とか「賢く抗議すべき」などと言っているが、こうした発言も、スポーツと下賤な「勝負事」の区別がついていない、くだらない物言いだと思う。審判への心証をよくして、有利な判定をしてもらおうというのは、交通違反をしたときに、警察に愛想笑いをして見逃してもらおうとするのと同じ、さもしい根性だ。
向き合うべきは相手選手であり、試合である。「Master of Game」である審判をしっかりリスペクトしつつ、ゲームに集中するのがまっとうな態度だといえよう。
ABSも審判の管理下にある
今年からMLBはABS(Automated Ball-Strike System)を導入した。これはストライクボールの判定について、両チームの選手が1試合あたり2回ずつ異議申し立てができる制度だ。微妙なボールの場合、選手はヘルメットを叩いてチャレンジすることができる。判定が覆れば、チャレンジする権利は減らない。この制度についても「審判のジャッジがいい加減で信用できないから、導入された」と思っている人がいるが、そうではない。
ホークアイなどを基幹とするトラッキングシステムの進化によって、これまで人間の目では判断できなかった微細な部分を瞬時に映像化して提示できるようになったために、従来の判定が覆るようになったのだ。この場合でも、最終のジャッジが球審が行っている。
技術の進化は審判を利する
森下の判定の報道の後から「NPBでもABSを入れるべきだ」という声が大きくなっている。ABSの導入は、必然的ではあろうが、それは森下の判定とは何の関係もない。「人の眼」では見分けることができない高精細な部分まで、瞬時に提示できるほどにテクノロジーが進化したから、これを導入しただけだ。そしてこうしたジャッジに関する新たな技術はすべて「審判の管理下」にあり、審判の判断で運用されている。
技術革新によって、審判の「権威」はむしろ補強されているとみるべきだと思う。