58億円で買った→返還と1000億円の賠償請求…日本にあるゴッホ「ひまわり」がアメリカで裁判になった理由
※本稿は、福田直子『略奪美術品の行方』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/imaginima■58億円で日本に来たゴッホの絵画
1987年、安田火災海上保険(現、損害保険ジャパン)がヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853─1890)の「ひまわり」(F457)を購入した。
「ひまわり」の価格は当時の絵画史上最高の落札額で、オークションハウスへの手数料と保険料などを加えると58億円であったと伝えられた。ロンドンのオークションハウス、クリスティーズが開催した競売日が、ゴッホの誕生日、3月30日であったことは話題づくりもあったのだろう。
絵画の最高額を更新するのは14世紀から18世紀に描かれた古典的な具象画である「アルテ・マイスター」の作品に限るというそれまでの固定観念を打ち破り、「ひまわり」の落札額によって近代・現代美術が青天井の価格で評価されるという例となった。「ひまわり」の落札をきっかけに、美術品の高額な評価額は近代・現代美術品へシフトした。
太陽の色ともいえる鮮やかな黄色に魅せられたゴッホは、フランス南部のアルルで黄色い家を借り、ゴーギャンの来訪を待ちながら、ゴーギャンを喜ばせたい一心で「ひまわり」を描いたといわれる。
■7点描かれた「ひまわり」の行方
ゴッホがアルルで描いた一連の「ひまわり」は7点あった。ただし、現存するのは6点である。
1920年、兵庫県芦屋市の実業家、山本顧彌太が購入し、自宅に飾ってあった「六本のひまわり」(F459)は、1945年、第二次世界大戦末期、米軍の爆撃で焼失してしまった。ほかの6点のひまわりと異なり、唯一、背景が紺であるこの作品は「まぼろしのひまわり」となり、現在ではかろうじて徳島県鳴門市の大塚国際美術館に「陶板複製」としてよみがえっている。
そして黄色の背景に黄色のテーブル、黄色の花瓶に生けられた「一五本のひまわり」は3点ある。
安田火災海上保険が購入したこの「一五本のひまわり」(F457)は、現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所有する「一五本のひまわり」(F454)のゴッホ自身によるコピーで、1888年11月から12月の間に描いたとされる。
もう一点(F458)はアムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館の所有だ。なお、ロンドンとアムステルダムの作品はゴッホによるサインが花瓶に記されているが、日本にある作品には署名がない。ゴッホはすべての作品にサインしたわけではなかった。
■日本の美術館の「顔」に返還請求
「ひまわり」が1987年秋に日本で初めて安田火災東郷青児美術館(現、SOMPO美術館)で展示されたときはわずか半月で過去一年分の訪問者数を上回ったというから、「ゴッホ効果」による集客力は日本人の印象派好きともあいまって他に類を見ない。ゴッホの「ひまわり」は同美術館が誇る「目玉」として長い間、人々をひきつけてきた。
SOMPO美術館が収蔵するゴッホの「ひまわり」(F457)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)当初、旧安田火災海上保険の高層ビル、42階に展示された「ひまわり」は、2020年、損害保険ジャパン本社の前に建てられた新美術館の開館とともに移転した。旧安田火災海上保険が損害保険ジャパンとなり、ゴッホの「ひまわり」はすっかりグループの「顔」となった。
わずか100.5センチ×76.5センチの「ひまわり」は、小さな美術館で分厚いガラスに守られ、今も特別な位置を占めている。すでに「バブル時代」を知らない世代が増えたものの、「アジアで唯一のひまわり」は日本人の間ですっかりなじみとなった。
ところが、2022年暮れにある事件が起きた。
SOMPOホールディングスが所有する「ひまわり」をめぐり、元所有者の遺族が返還を求め、同社をアメリカの裁判所に提訴したのだった。
■約1000億円の賠償を求めた遺族
100ページ近い訴状が提出されたのはイリノイ州シカゴの裁判所。返還請求の理由は、「祖先が所有していたひまわりは、ナチスによって1934年に強制的に売却させられた」というものだった。祖先とは、ドイツの銀行家パウル・フォン・メンデルスゾーン=バルトルディー(1875─1935)。ニューヨークとベルリンを拠点とする3人の原告たちは、彼の遺族だ。
彼らは、「旧安田火災海上保険は、ひまわりの出所、“来歴”を無視して購入した」として返還、および7億5000万ドル(当時のレートで約1000億円)の損害賠償を求めた。破格の賠償請求額は、「ひまわり」所有で得られたと推定される30年以上の利益が考慮されているためであるという。
返還請求の筆頭原告に、ユリウス・ショップスという名前をみつけた。
実はずいぶん前にベルリン郊外にあるポツダムの研究室でショップスにインタビューしたことがあった。当時、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880─1938)の「ベルリンの街の風景」(1913─14年作)の返還問題をめぐりドイツで激しい論争になっており、論客のショップスは活発に発言していた。
カール・シュミット=ロットルフとともに、キルヒナーは「ブリュッケ(橋という意味)」という画家グループを結成し、ヴァシリー・カンディンスキーやフランツ・マルクの「青騎士」と並んでドイツの現代美術の新潮流を率いた。だが、キルヒナーはナチスが最も忌み嫌った表現主義の芸術家として排斥され、スイスでピストル自殺を遂げている。
■返還を促す国際原則に法的拘束力はない
戦後、「ベルリンの街の風景」は、ベルリンの郊外にあるブリュッケ美術館に展示されていたが、元の所有者でコレクターであったアルフレッド・ヘス(1879─1931)のロンドン在住の孫、アニタ・ハルピンが2006年に返還請求訴訟を起こした。
ハルピンが返還請求訴訟を起こしたのは、「ナチスに不当に略奪された美術品を所有している美術館は、正当かつ公平な方法で返還への解決をみつけること」を趣旨とする1998年のワシントン原則が採択されたことに勇気づけられたのであろう。44カ国が合意したワシントン原則の採択以降、かつて美術品を略奪された元コレクターや所有者が名乗りをあげるケースは多数あった。
しかし、ワシントン原則で合意された「正当かつ公平な方法で返還への解決をみつける」とは実際にどういうことなのか。この原則には法的拘束力がなく、返還は進んでいないのが現状だ。ワシントン原則は「ソフト・ロー」として美術館関係者たちに倫理的判断を求めるもの以外の何物でもない。
■売却の理由は財政難か、ナチスの迫害か
「ベルリンの街の風景」の返還請求をめぐる論争の争点は、単なる財政難から売却せざるを得なかったのか、それともナチスによる排斥のためであったのか、である。
つまり、ナチスが政権を奪取する以前に亡くなったヘスの遺族が1929年の大恐慌の影響を受けたため、財政難から作品を売却したのか、それとも1933年から厳しくなったユダヤ人迫害、脅迫を受けたために売却せざるを得なかったのか、という点である。
結局、「ベルリンの街の風景」はハルピンに返還されたのち、クリスティーズの競売にかけられ、破格の価格で落札された。現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーにある。
ノイエ・ギャラリーが収蔵するキルヒナーの「ベルリンの街の風景」(1913-14年作)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)メンデルスゾーン家の子孫たちは、そもそも自分の祖先がドイツ有数の銀行家であったという事実を知ってはいても、美術コレクションを所有していたことを知っていた者はいなかった。
ショップスが一家の美術コレクションの存在を知ったのはカナダ人のゴッホの専門家、ボゴミラ・ウェルシュ=オフチャロフから偶然、伝えられたときで、それをきっかけとして調査がはじめられた。
■名門一族が祖先のコレクションを追う
メンデルスゾーン一族といえば、作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンが有名だ。ユダヤ教からプロテスタントに改宗したメンデルスゾーン家は「ドイツ社会に同化したユダヤ人」であった。18世紀末に「メンデルスゾーン銀行」を設立し、ナチスが政権を掌握するまではドイツを代表する銀行として知られていた。パウル・フォン・メンデルスゾーン=バルトルディーはルノワール、モネ、ルソーなどをはじめとする現代美術の作品を購入し、ゴッホやピカソの作品も数点、所有していたという。
フェリックス・メンデルスゾーンの肖像画(写真=ベルリン州立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)ショップスは、祖先のコレクションの存在を知って以来、一族を代表して数件の美術品返還請求を行ってきている。メンデルスゾーン家は、まずピカソの作品をめぐり、ニューヨークの近代美術館(MoMA)、グッゲンハイム美術館およびアンドリュー・ロイド・ウェバー財団を相手に返還請求訴訟を起こし、この三者とは和解した。
また、ワシントンのナショナル・ギャラリーからはピカソの作品を返還されている。ミュンヘンのバイエルン州立美術館を相手にしたピカソの「マダム・ソレール」(1903年作)の返還請求については、「ナチスの排斥による略奪美術品とはいえない」という理由から返還を拒否されており、このケースは未解決だ。
■問われたのは「1934年の売却」だった
ショップスの祖先、パウルが「ひまわり」をパリの画廊から購入したのは1910年であった。1933年1月にナチスが政権を掌握してから、ユダヤ人への排斥が強まるとともにその資産を凍結し、「ドイツ帝国の財産」に転換するという「アーリア化」が進められた。その一方で、美術品略奪が組織的にはじまった。
今回の提訴で争点となったのは、「ひまわり」が「1934年に売却」された点で、それが「排斥」によるものなのかどうか、である。
メンデルスゾーン家は事業を営むことを禁止され、収入の道が絶たれる中、「ひまわり」はまだ「安全地帯」とされていたオランダ、ハーグの画廊に売却され、その後、パリの著名なポール・ロザンベール画廊に展示されていた。そこへイギリスに在住していたアメリカの富豪、エディット・ビーティーが訪れ、購入。ビーティー夫妻逝去後、遺族がロンドンの競売に出し、旧安田火災海上保険が落札した。
これが「ひまわり」のおおまかな「来歴」だ。
■名画は「足どり」が問われる時代に
「来歴(プロブナンス)」とは、すなわち、美術品が画家のアトリエを出てから現在にいたるまでの「足どり」を指す。近年、ピカソやマティスなどの作品が「ナチスの略奪美術品」として問題となるたびに、正当な所有者は誰なのか、作品の「来歴」が問われるようになった。
バイエルン州エリンゲンのシュロス教会に保管されたドイツ軍の略奪品(1945年4月)(写真=アメリカ国防総省 陸軍省 通信総監室/PD US Army/Wikimedia Commons)福田直子『略奪美術品の行方』(集英社新書)もっとも、旧安田火災海上保険が「ひまわり」を落札した1980年代にこういった「来歴」は、ほとんど問題視されなかった。一部の美術関係者の間では認知されていたとはいえ、競売の印象を悪くしないためになかば黙認される傾向が強かったためである。しかし、「ひまわり」の購入当時から時代は大きく変わった。
略奪された美術品に対する姿勢が世界的に転換したのは1990年代以降である。その背景には世界的に大きな政治のうねり、変化があった。共産圏の崩壊とともに一応、「冷戦が終了」したことでそれまで封印されていた文書が旧ソ連で公開され、略奪美術品に関する著書も次々に刊行された。
ショップスなど原告が返還を求めた「ひまわり訴訟」は、その後、イリノイ州の裁判官が「証拠不十分のため本件を却下する」という判決を下した。今後、原告側がどのような法的手段に出るのか、出ないのか、本稿を書いている段階では不明である。
----------福田 直子(ふくだ・なおこ)ジャーナリスト
上智大学卒業後、ドイツのエアランゲン大学にて政治学・社会学を学ぶ。帰国後、新聞社、出版社にて勤務。アメリカとドイツに通算40年近く住み、テレビ番組のリサーチ、コーデイネートに携わったほか、新聞や雑誌などニュース系の媒体に寄稿。著書に『休むために働くドイツ人、働くために休む日本人』『デジタル・ポピュリズム』『観光コースでないワシントン』など。
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