兵士の避妊具に歯ブラシも 戦跡から迫る戦場の実相 課題は保存
第二次世界大戦末期の沖縄戦で、日米両軍の激しい地上戦があった沖縄県には、日本軍の作戦や住民の避難で使われた壕(ごう)や自然壕(ガマ)といった「戦争遺跡(戦跡)」が1000カ所以上残る。
戦跡では薬品の瓶や歯ブラシ、兵士の避妊具などの遺留品も見つかり、戦場の実相解明や証言の裏付けに貢献するなど学術的な価値も高い。しかし、次世代に残していくためには高いハードルを越えなければならず、調査や保全の必要性を訴える研究者は危機感を深めている。
<主な内容> ・提唱した「戦跡考古学」 ・制度上のハードル
・知事が目指すのは…
戦場を解明する考古学
「これは散兵壕。物見の兵士が身を隠すために掘られたものだ」
6月9日、沖縄本島中部の西原町。丘の頂上にある琉球王国時代の城跡「幸地(こうち)グスク」で、沖縄考古学会顧問の當眞嗣一(とうましいち)さん(81)は、木々が生い茂った急勾配の斜面を指した。
目をこらすと、兵士1人がやっと通れるくらいの溝がいくつも掘られていた。近くには、兵士1人が身を隠す縦穴の「たこつぼ壕」もあった。
一帯では、1945年の沖縄戦で約1カ月に及ぶ激しい攻防戦が繰り広げられた。古い城跡に残る戦跡は、圧倒的な火力で前進する米軍に対し、日本軍が地形を利用しながら必死の抵抗を試みた痕跡だ。
死闘は住民も巻き込み、西原町(旧西原村)では当時の人口約1万人のほぼ半数が命を落とした。一家が全滅し、死亡した経緯が分かっていない世帯も多い。
「戦跡を調べることで、生存者の証言だけでは解き明かせない沖縄戦の実相に迫れる」。こうした考えを基に、當眞さんは県教育庁に勤めていた84年、戦跡の詳細な測量や、遺留品の調査などにより、当時の状況を明らかにする「戦跡考古学」を提唱した。
そこには生い立ちも影響している。
當眞さんは44年9月に西原村で生まれた。乳飲み子の時に迎えた沖縄戦では、飢えとマラリアで生死の境をさまよった。戦後、生家のあった土地は米軍の飛行場に接収され、滑走路になった。59年に返還されると、農地にするため、つるはしでコンクリートを掘り返した。地中からは、米軍の艦砲射撃による砲弾の破片が大量に出た。
「戦争があった場所の上に生活がある。戦跡考古学を提唱することになった原点の経験だ」と回想する。
制度上のハードル
県によると、沖縄戦の戦跡は少なくとも1077カ所ある。住民が急ごしらえでつくった壕や、シェルターとして使った沖縄特有の大きな墓などを加えると、その数はさらに増える。
戦跡考古学の提唱以来、自治体や研究者による各地の戦跡…