テクノロジカル・サブライム──わたしたちは最新技術を畏れ敬うべきなのか

2001年宇宙の旅』の導入部分。映画史に残る最も有名なカットのひとつであるこのシーンは、「テクノロジカル・サブライム(technological sublime)」の概念を完璧に表現している。最初に映し出されるのは、怒り狂った猿人が死んだ動物の骨を手に取り、仲間の猿人を死ぬまで殴り続ける光景だ。その骨が武器になったことに気づいたサルは、それを祝福するかのように空高く放り投げる。くるくると回転しながら、穢れひとつない青空を背景に、はるか上方へと飛んでいく骨。

その動きを、わたしたちの視線は追い続ける。すると不意に、場面は宇宙へと切り替わる。猿人の時代から何百万年も経った未来だ。骨はいつのまにか、丸い地球の上空をゆっくりと通過する、優雅な人工衛星へと姿を変えている。その後数分間、宇宙船がステーションにドッキングする様子を眺めながら、わたしたちは、人類があのサルからどれほど遠いところまで来たのかを、しみじみと思い知らされる。

SF映画を観たことがある人なら、テクノロジカル・サブライムとの遭遇はすでに経験しているだろう。それは、テクノロジーの進歩がすべてをのみ込んでしまうかもしれないと感じた瞬間に湧き上がる、恐怖と一体になった畏敬の念のことだ。

例えば、『ブレードランナー』に描かれる雑然としたサイバーシティの光景を、ポカンと口を開けたまま眺めたことがあるかもしれないし、『メッセージ』に登場する、巨大な葉っぱのようなありえない姿の宇宙船に度肝を抜かれたこともあるだろう。『マトリックス』の画面に流れる緑色のコードの列に、隷属からの解放の約束を感じ取った人もいるかもしれないし、アリシア・ヴィキャンデルが演じる『エクス・マキナ』の不気味なほど美しいアンドロイド、エヴァを通して、「人間以上の存在になる」とはどういうことなのか、その一端を垣間見た人もいるだろう。

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これらすべての例に共通しているのは、テクノロジーが巨大で、奇妙で、どこか無慈悲なものとして立ち現れながらも、同時に人の意識を押し拡げ、心を強く揺さぶる力をもっているという点だ。それはまるで、わたしたちを高みへと運び上げる、大きなうねりの波のようだ。

こうしたものは、まだ実現していない未来の空想世界に属するもののように思えるかもしれない。だがテクノロジカル・サブライムは、すでに、いまわたしたちが生きているこの現実世界にも存在している。数十年前、小学生だったわたしたちは、スペースシャトルがケープ・カナベラルから打ち上げられる光景を目にし、教室の小さなテレビ越しにも伝わってくるロケットのすさまじいパワーに、胸の高鳴りを抑えきれなかった。

そして現在でも、スペースXのロケットブースターが地球へ帰還し、巨大なメカニカルアームの中にすっぽりと収まる瞬間をひと目見ようと、大勢の人が集まってくる。ロケット技術は未来の産物のように感じられるが、実のところ、現代的なロケット工学はすでに誕生から100年近くが経っている。つまり、わたしたちが胸を躍らせているものは空想ではなく、現に存在するのだ。

ワンワールド・トレードセンターにあるオフィスに足を踏み入れるとき、わたしはよく鋭く尖った先端へと流れるように伸びていく建物の壁面を見上げる。こうした未来都市を思わせる建築物も、実際には、いまここに存在する現実のものだ。そして、これほどの建物を可能にした革新的な技術──鉄骨構造、カーテンウォール(非耐力壁)、空調制御システム、エレベーター──はいずれも、その起源を19世紀にまで遡ることができる。わたしたちは、そうしたハイテクな時代を長いあいだ生きてきたし、いまこの瞬間も、そのただなかにいる。

崇高なるものへの畏敬の念

「ザ・サブライム(The sublime、崇高なるもの)」という概念自体は、古くから存在してきた。少なくとも、美的経験(しかもおそらく最上級のもの)を指す言葉だ。2,000年前のギリシャで書かれた『崇高について(On the sublime)』という論考の執筆者は、崇高を不滅の文学的卓越性、例えば「光あれ」といった一節によって呼び起こされる感覚と結びつけて論じている。

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