【大河べらぼう】第6回「鱗剥がれた『節用集』」回想 “鬼平”が初の捕物! 優良商品の海賊版に手を染めた鱗形屋、3400冊も刷った 「日光社参」は農民も困窮に追い込む浪費イベント 意知、運命の相手と早くも面会

平蔵が先陣!鮮やかな捜査官デビュー

罪人の科とがは盗みではありませんでしたが、のちの“鬼平”、長谷川平蔵(中村隼人さん)に相応しい捕物のシーンがついに登場しました。(ドラマの場面写真はNHK提供)

「節用集」という字引の海賊版を密造していた鱗形屋に客を装って入り、狙いの証拠である偽の節用集を確保しました。これで強制捜査に着手する根拠は十分です。判断よく「あったぞ、偽版だ!」と大声をあげて店の者の動きを制圧。間髪入れず仲間の与力たちを招き入れました。お馴染みの「火付盗賊改」の身分ではまだありませんが、“捜査官”デビューとしては上々の出来だったでしょう。

「上方の版元、柏原屋与左衛門より訴えがあった。柏原屋が作りし『増補早引節用集』を『新増早引節用集』と改題した不届きもの捕らえてほしい」と被疑事実を告げられた鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助さん)。蔦屋重三郎(蔦重、横浜流星さん)が密告したと思いこみ、「蔦重、このままで済むと思うなよ」と捨て台詞を吐いたものの、お上の捜索で大量の偽物という決定的な物証が店内で見つかってしまっては言い訳のしようもありません。大人しく連行されるほかありませんでした。ドラマに登場した「柏原屋」は当時、実在した大坂の老舗書店で、鱗形屋が摘発されたことも史実どおりです。

「研究叢書 節用集と近世出版」(和泉書院)によると、鱗形屋が「新増早引節用集」の出版で摘発されたのは安永4年(1775)のこと。違反の品として版木710枚、摺込本2800冊を差し出させたといい、印刷総数は売り払った600冊を加えて3400冊に達しました。

架空の書店「丸屋源六」の名前で売りさばいていました

記録上は鱗形屋の手代藤八が架空の本屋「丸屋源六」を詐称して作ったという事になっていますが、この数ですから組織的な海賊本制作だったことは想像に難くありません。

ドラマでも店総出で海賊版の「節用集」を制作する場面が描かれました

「節用集」とは、読みから漢字の表記を調べる字引で、読みの1字目の仮名で「イロハ」順に分け、さらに意味の分野ごとに「雷」「稲光」「稲妻」などと並べていくのが標準的なスタイル。漢字の読み書きが必須の教養となっていた江戸時代で、とりわけ文書による報告が求められる武士階級には「あの言葉は漢字でどう書くんだっけ?」を調べるために必携の書物でした。つまり出版元にとっては確実に利益が見込める商品です。前述の「研究叢書 節用集と近世出版」では「江戸で古参の鱗形屋にして重版(海賊版制作)せしめるほど、早引節用集は魅力的商品であったことが改めて裏付けられるということになる」とこの「事件」の意味合いを説いています。

3年前の明和の大火(1772年)で財産の多くを燃やしてしまった鱗形屋。江戸の地本問屋で指折りの老舗というプライドはあっても、実情は火の車でした。というわけで先行本を真似て版木を作り、大量の海賊本を作って稼ぎを確保しようとしました。もちろんこれは重大なルール違反です。

こちらが「本物」の柏原屋の節用集『早引節用集』,柏原屋与左衛門[ほか4名],天保7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13391581

「著作権」はないが「出版権」には厳しい業界

江戸時代にはまだ「著作権」の概念がありませんでした。あったのは版元(=出版業者)の「出版権」です。著者から原稿を受け取った版元は、彫師に「板木」を作らせて、それを所有することで「出版権」を得ました。

一九 作『的中地本問屋 : 2巻』,[村田屋次郎兵衛],[享和2(1802)]序. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2537597この権利はとても強く、ある版元が新刊を出版する際には、過去に似たような内容がないかなどを「仲間」に諮り、出版の了承を得る必要がありました。「べらぼう」でも重要なテーマになっている本屋同士の「仲間」や「株仲間」の活動も、新規参入の規制による利益の独占というより、海賊版対策という意味合いが大きかったようです。メディアの権利を侵害する海賊版をメディア側が厳しく看視し、処罰を求めるのは、昔も今も変わりません。

「重板」「絶板」「再板」という用語も ただし今と意味は違う!

「江戸の本屋と本づくり」(平凡社)によると、この出版権に関わる用語としては、「重板(じゅうはん)」「絶板(ぜつぱん)」「再板(さいはん)」などの用語がありました。今も出版界には「重版」「絶版」「再版」など似たような言葉がありますが、意味するところは違いました。

江戸時代の百科事典「和漢三才図会」にも登場するほど一般的な存在だった彫師らの出版の仕事寺島良安 編『和漢三才図会』卷一,内藤書屋,〔1890〕. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1876631

江戸時代の「重板」は「内容が同じものを無断で刻して出すこと」で、最も厳しく断罪されました。また「絶板」は「出版許可の出ない本や、禁書の版木を焼却処分して廃棄させること」という厳しい意味。「再板」は「板木が傷んだり焼失したとき、合法的に再び刻して出すこと」ですが、これにも仲間同士の承認が必要でした。厳しい相互チェック体制が働いていたことが分かります。

蔦重とも縁、意味ありげな「駿河の小島藩」の登場

この「節用集」の海賊版を鱗形屋から仕入れ、売りさばいて現金収入を得ていた、という筋書きで登場した「駿河の小島おじま藩」。小島藩は実在しますが、同藩の関与はフィクションの設定でしょう。海賊版が公儀の知るところになり、慌てた家老が勘定奉行に袖の下を通し、鱗形屋にのみ罪を押し付ける構図を作りました。鱗形屋の摘発現場で、平蔵が「なぜか上から鱗形屋を調べろと」と事の経緯を蔦重に説明していましたが、鱗形屋は「共犯者」である小島藩から裏切られたわけです。

恋川春町。小島藩士にして作家、絵師、狂歌師。狂歌の名手としても知られ、狂名は「酒上不埒」(さけのうえのふらち)と名乗りました『吾嬬曲狂哥五十人弌首』(国文学研究資料館所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200009276

この「駿河の小島藩」は現在の静岡市内に陣屋があった小藩。鱗形屋にも蔦重にも因縁浅からぬ藩です。この小島藩の重臣だった恋川春町(本名・倉橋格)は鱗形屋と組んで黄表紙『金々先生栄花夢』を表わし、文学史に名を残す存在となります。狂歌のジャンルでも活躍し、蔦重とのコンビでも数々のヒット作を飛ばしましたが、波乱の人生が待っています。このタイミングで「小島藩」を鱗形屋との絡みで登場させたのは後々の伏線ということでしょう。「べらぼう」では恋川春町は岡山天音さんが演じます。

鱗形屋、蔦重ともに縁の深い有能なクリエイター、恋川春町は岡山天音さんが演じます

激しい浮き沈み、没落する運命の鱗形屋

手痛い摘発を受けた鱗形屋ですが、史実ではまだまだ頑張ります。しかし、このあともう一度、「節用集」の海賊版で摘発されてしまいます。しかもこれらの不祥事に相前後して、先に紹介した名著『金々先生栄花夢』の出版も果たすという浮き沈みの非常に激しい経営でした。結局、鱗形屋は没落し、蔦重と交代するように享和年間(1789‐1804)以降は歴史から姿を消してしまいます。鱗形屋と蔦重は師弟関係で、ライバルで、商売仇。尊敬や憎しみ、嫉妬が入り混じる複雑な二者の関係も含めて、江戸の出版界に大きな足跡を残した鱗形屋の姿が今後、どのように描かれていくのか注目です。

「青本」をもっと面白く 「今」を描く 大人向けに

海賊本の摘発に先だっては、鱗形屋と蔦重が本作りに熱中する場面が描かれました。マーケットを拡大するために新しい本を作るにあたって、蔦重が花の井(小芝風花さん)や次郎兵衛(中村蒼さん)からもらったヒントが「青本がつまんない」でした。

「赤本」「黒本」「青本」「黄表紙」など色の名前が付いた本がいくつか出て来たので整理すると、これら全体は「草双紙」(くさそうし)といい、江戸時代中期から後期にかけて、江戸の地で創作された娯楽用の絵説き小説本のことです。本の名前は表紙の色です。子ども向けの「赤本」が最初に登場し、次いで上の世代向けの「黒本」や「青本」が出てきました。内容は浄瑠璃の演目、英雄一代記、化物話などが中心でした。

蔦重が花の井に勧めていた『楠末葉軍談(くすのきばつようぐんだん)』も代表的な青本。油井正雪、丸橋宙弥らが幕府転覆をはかった「慶安の変」をモチーフにした「慶安太平記物」とよばれるジャンルです。

和祥『楠末葉軍談 3巻』,鶴屋喜右衛門,宝暦13 [1763] 刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10301157このように各丁の大部分を挿絵が締め、その周囲に筋を主に平仮名で記します。絵と文章はマンガのように有機的に繋がっていますが、絵画を見ることが主体の形式です。この作はテーマがテーマだけに舞台を室町時代に移していますが、主人公が「五井正察」だったり、その妻が「お由井」だったりと、「慶安の変」への寄せ方は、かなりあからさまです。

ストーリーは確かに面白いのですが、題材の「慶安の変」が起きたのは1651年と、100年以上前の武士のお話です。同時代性という点でも、庶民目線の共感という点でも物足りないものを感じたのでしょう。

新しい本作りでブレインストーミングをする鱗形屋と蔦重

「青本」を始めた鱗形屋が歴史を変える?

蔦重から「青本がつまんねえ」と言われ、血相を変えた鱗形屋ですが、その意味するところを知り納得しました。もともと「青本」というジャンルは鱗形屋の先祖が始めたとされ、それをアップデートする仕事に運命的なものを感じた鱗形屋でした。「日本古典文学大辞典」(岩波書店)によれば、「青本」の歴史は延享元年(1747年)、あるいは享保年間(1716‐1736)にまで遡ることができ、いずれも鱗形屋が刊行を始めたもの。「今」をよく知る蔦重の知恵も得て、その青本の歴史を塗り替える書物が文学史に残る作品として結実するのですが……。これは次回以降のお楽しみでしょう。

壮大なスペクタクルの「日光社参」ですが……

田沼意次(渡辺謙さん)らの経済重視の施策で、幕府の財政状況が好転。ようやく明和の大火の前の水準にまで戻ったことが報告されるやいなや、ご機嫌の筆頭老中・松平武元(石坂浩二さん)から驚くべき提案がなされました。「このあたりで『日光社参』を執り行いたいのだが」。

上機嫌の武元

意次の表情が険しくなったのも無理はありません。とんでもない金食い虫の大イベントだからです。

先頭が0時に出発、最後尾が江戸を出るのは10時

「日光社参」とは日光東照宮に参詣すること、特に徳川将軍(大御所や将軍嫡子も含む)が参詣することを言いました。江戸時代を通じて19度しか行われておらず、大半は2代秀忠、3代家光によるもの。そのあとは4代家綱が2回、8代吉宗、10代家治、12代家慶が各1回ずつ行ったに過ぎません。将軍家の威光を示すためにかかる膨大な費用がネックになり、頻繁に行うことは難しかったようです。これからドラマで描かれる1776年(安永5)の家治の社参では、大名と旗本とその家臣、関東各地の農村からかき集められた人足を含めて延べ400万人を動員。馬も延べ30万疋を動員。幕府の年収の約7分の1にあたる22万両が支出されたといいます。

「栃木県史 通史編4」などによると、吉宗の社参(享保13年、1728年)の際は4月13日から21日までの9日間で江戸~日光間を往復。行列の先頭が13日午前0時頃に江戸を出発し、順次後続の行列が出て、吉宗の隊列が出発したのは午前6時、最後尾の部隊が出たのが午前10時という桁外れのスケールでした。家康の命日である17日に東照宮などで祭祀を行い、帰京しました。

「日光山御社参御行列書」国立公文書館デジタルアーカイブ安永5年の日光社参の記録。田沼らの名前も見えます

農繁期に「人と馬を出せ」の過酷さ、大飢饉が追い打ち

問題は金だけではありません。ドラマでは大名や旗本への財政負担がテーマになりましたが、それに加えて周辺の農村に割り当てられる人や馬の動員も厳しいものでした。日光の社参や法会は4月17日の家康命日前後に集中するという時期も良くなく、「栃木県史」では「農村の人馬動員が、太陽暦に直すと五月から六月の田植えの農繁期にあたり、農村の負担の過酷さは、時期を下るにしたがってしだいに蓄積されていったのである」といい、「村の困窮や荒廃に一層拍車をかけることになるのであった」と結んでいます。

月岡芳年画「徳川十五代記畧 大猷公の十三回忌綱家公日光社参上図」東京都立中央図書館蔵

大名や旗本の苦しい懐事情や、農民の困窮について、江戸城内ではほとんど関心を持つ人はいなかった、というエピソードでした。時代が下るにつれて社参のルートになる下野国(栃木県)では必要な人馬を出せる村が少なくなり、動員は隣国の常陸(現在の茨城県)や下総(千葉県の一部)にまで及びました。すると街道や宿場への移動にも時間がかかり、農民への負担は一層増大。疲弊が蓄積した農村に、天明の大飢饉(1782∼88)が決定打となり、北関東の農村の荒廃が進んだという見方もあります。大名や旗本も不信感を募らせたことでしょう。政権の威光を示すために開催した大掛かりなイベントが、結果的に政権の足元を揺るがせることになっていたのかもしれません。

「家柄」をめぐる葛藤、意知の悲劇の遠因?

田沼意知(宮沢氷魚さん)とあっさり対面する姿に「あっ」と驚いた方も少なくなかったのではないでしょうか。旗本・佐野政言(矢本悠馬さん)です。これから約9年後の天明4年(1784)に、江戸城内で刃傷に及び、意知を刺殺したその人です。政言は切腹になりましたが、江戸市民からは「世直し大明神」と呼ばれ、その墓には参詣が絶えなかったエピソードでも有名です。

得体の知れない雰囲気を漂わせていた政言。佐野家は名門の出で、家系図を渡して「田沼家の由緒に使っていいから、よい役に付けてほしい」という猟官運動でしたが、幕府内で「家柄」をネタにマウントを取られて散々嫌な思いをしている意次にとっては不愉快なだけの話です。

この佐野家からの依頼、意次には全く相手にされませんでした。

政言が意知を狙った理由は「出世させてくれなかったから」など諸説あります。意知を失ったことは、父・意次の運命も大きく変えてしまいました。今後、刃傷に至る政言をどのように描くのかも注目です。

蔦重、苦い思いをかみしめる

今回、蔦重にとっては苦渋の展開でした。鱗形屋の下で働くことになったものの、海賊版の不正を知ってしまい、それをしかるべき筋に密告するべきかどうかで悩みました。さらに鱗形屋ら地本問屋らが最初から結託して蔦重を利用していたことも分かってしまいました。鱗形屋がいなくなれば「空いた席にオレが滑り込めるかも」という計算だってもちろん働きます。

蔦重の選択は静観でした。鱗形屋に警告しなかったということは、蔦重本人が平蔵に告げたとおり、鱗形屋が摘発されること「心のどこかで望んでいたから」です。

馬鹿正直な蔦重にとっては苦い味のする「濡れ手に粟」「棚からぼたもち」をあわせた「粟餅」でした。こうした経験をへて、蔦重は一層タフな商売人に成長していくのでしょう。(美術展ナビ編集班 岡部匡志) <あわせて読みたい>

視聴に役立つ相関図↓はこちらから

関連記事: