地図から消された瀬戸内海の毒ガス島「日本人は戦争の加害者でもあった」…負の歴史伝える80歳
太平洋戦争中に地図から消された島がある。日本軍が極秘に毒ガスを製造していた瀬戸内海の 大(おお)久(く)野(の) 島(広島県竹原市)だ。周囲4キロの小島には今も戦争遺跡が残り、「負の歴史」を伝えている。(波多江一郎)
毒ガス工場の発電場跡前で大久野島の歴史を説明する山内正之さん(広島県竹原市で)=加藤学撮影約100トンのタンク6基が置かれた毒ガス貯蔵庫の壁は所々黒ずんでいる。戦後、毒性を取り除くために火炎放射器で焼かれたためだ。製造施設に電気を供給するディーゼル発電機が置かれた建物は3階建ての吹き抜け構造で、見る者を圧倒する。
大久野島は、広島市の中心部から東に約50キロ。港からフェリーに揺られて15分でたどり着く。4月下旬、毒ガス工場の歴史を伝える山内正之さん(80)が、現地学習に訪れた中学生たちにこう訴えた。
「日本人は戦争の被害に遭っただけではなく、加害者でもあった。そのことを知ってほしい」
大久野島にあった毒ガス工場(竹原市提供)毒ガス工場は、1929年に陸軍の兵器製造所として開所した。海に囲まれた島は機密を守ることが容易である一方で、労働者らが簡単に船で行き来できるため適地となった。
皮膚をただれさせる猛毒の「イペリット」や「ルイサイト」を製造し、37年の日中戦争以降、生産は拡大。一部が戦場で使用されたとされる。終戦までに6616トンが生産され、6000人以上が業務に従事したとの記録が残る。
工場には対岸の本州の住民や中学校、女学校の生徒らが動員された。作業は危険と隣り合わせ。誤ってガスを吸い込むなどして負傷者や死者が相次いで出た。工場内の様子は口止めされ、当時の地図では、島周辺が白く消された。
生産された毒ガスは戦後、海洋投棄や焼却処分にされた。だが作業員らは慢性気管支炎などに苦しみ、広島県によると、国が被害を認定した健康管理手帳の所持者は5月末現在、全国に463人(平均年齢95歳)いる。
現地学習に参加した広島県廿日市市の山陽女学園中等部3年の女子生徒(14)は「広島では米軍による被害が注目されるが、加害の面も知った。片方だけが悪い戦争はないと考えさせられた」と振り返った。
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山内さんは1944年、満州(現中国東北部)で生まれた。母親から「中国人に助けてもらい、日本に引き揚げることができた」と聞かされて育った。
戦後は竹原市で暮らし、高校の社会科教諭になっていた96年、市内で開かれた毒ガス工場に関するシンポジウムに参加。中国では日本軍が遺棄した毒ガスで負傷者が出ていると知り、戦争の爪痕に衝撃を受けた。市民団体に加わり、島で語り部を続けている。
ただ近年は、学校からの訪問が減っていると感じる。同じ県内にある原爆被害を伝える広島平和記念資料館は昨年度、過去最多の226万人が訪れた。一方、竹原市などが島に開設した「大久野島毒ガス資料館」の来場者は4万2000人でコロナ禍前の水準まで回復していない。
島は現在、野生のウサギと触れ合える「ウサギの島」として人気が高まっている。山内さんは、毒ガス工場があった過去をかすませてはならないと誓い、こう言った。「原爆被害は世界中の人が知っているが、大久野島の毒ガスはほとんどが知らない。過ちを繰り返さないように歴史を伝えていく」
◆ 毒ガス =第1次世界大戦でドイツなどが実用化した兵器。多大な犠牲が出たため1925年の「ジュネーブ議定書」で使用が禁じられた。日本は同議定書に署名をしたが批准はせず、日中戦争で毒ガスを使用したとされる。