【連載ふくびと】第10話 菊池武夫--最高潮だった気分が急降下、姿を消す
第9話からつづく——
1980年代から90年代にかけて、「タケオキクチ(TAKEO KIKUCHI)」のファッションショーは、個性豊かなモデルやカルチャーを色濃く反映した演出など、型にはまらない唯一無二のスタイルで注目を集めた。しかしコレクション制作も佳境を迎えるショーの数日前、菊池武夫はよく蒸発するように姿を消したという。その行動の裏にはどんな心境があったのか。——「タケオキクチ」のデザイナー菊池武夫が半生を振り返る、連載「ふくびと」第10話
僕は、自分がファッションデザイナーだという意識は今でも持っていません。好きなスタイルは決まっていて、その範疇から出ることもない。ただ、「クリエイションをしている」という意識はあります。面白いことが浮かんだら、人より先に表現したい。なのでそれがデザイナーの仕事とは限らなくて、強いて言うなら”表現者”なのかなと思います。
1990年、51歳の頃
デザインのアイデアが浮かばなくて困ったことはありませんね。それよりも大変だったのは、気分の浮き沈み。ショーを年に2回やるのは、自分にとってやりがいである一方、非常に大きなストレスも感じていました。
それがピークまでくると、すべてが嫌になってしまったり。なかでも強烈に覚えているのはタケオキクチ1986年春夏コレクションです。
最高の出来栄えでした。僕にとってのベストショーと言えると思います。会場は赤坂のディスコ「ムゲン」。レイ・ペトリ率いるロンドンのクリエイティブ集団バッファローと組み、彼らが演出を手掛けてくれました。1回のショーでは観客が入りきらないということになり、3回に増やしたほど。
闘牛士をイメージしたスタイルにストリートの感覚を取り入れたコレクションに、レイの素晴らしいアイデアが合わさり、「最高にかっこいいものができた!」と自信がありました。でも、1回目のショーが終わった後、最高潮だった気分が急降下。一気に興醒めしてしまったんです。目に入った関係者の反応が思ったほどでもなかったからか、自分の中の興奮との乖離を感じて、ガクンときてしまったのかなと思います。
耐えきれなくなって、ムゲンを出てまっすぐ家に帰りました。「もうどうでもいいや」という気持ちで、お風呂に入ったりして。
後で聞いたら、僕が急にいなくなったものだから現場はパニックだったそうです。夜になって少し気持ちが落ち着いた頃、ちょうど3回目のショーのフィナーレ前に、会場に戻りました。
その時、ドン・レッツ(Don Letts)というDJがパフォーマンスをしていて、僕を見つけて呼んだんですよ。「早くステージに来い! 恥ずかしがらないで!」って。イヤイヤ出ていった記憶があります。
1985年 赤坂ムゲンで開催したショー
ワールドに移ってすぐにブランドの規模が大きくなり、プレッシャーは半端じゃなかったのだと思います。この1986年春夏のショーについては、10年ほど経ってようやく落ち着いて、振り返ることができたくらいですから。
自分の気持ちを抑えられない性格だし、アップダウンも激しい。でも、人を叱ったりするのは苦手だから色々と溜め込んでしまう。ショーの前にはよくそういう状態になって、誰にも言わずにフケるというのを何回かやりました。
仕事から離れて何をするかというと、ひたすら車を運転して、日本縦断も2回ほどやりましたね。愛車のキャデラックで。一度、バスと衝突する事故にあって、車が大破するなんてこともありました。
そしてまた仕事に戻っていくんですが、戻るきっかけとしては人の言葉が多かったかな。その頃にはスタッフたちが皆すごく成長していて、たいてい良いチームが出来上がっているんです。急に僕がいなくなって大変だったとは思いますが、おのずと自立せざるをえないのでしょうね。——第11話に続く
1985〜86年、タケオキクチ初期のシャツ
ホワイトタグに白字で「SHIRTS」とアイテム名が施されている
タケオキクチ初期のニットシャツのタグには「SWEATER」の文字
40年を経ても古さを感じさせないタイムレスなデザイン
【毎日更新】第11話「浅野忠信を起用 短編映画で起死回生」は3月8日に公開します。
文:一井智香子 / 編集:小湊千恵美企画・制作:FASHIONSNAP