反社集団日本学術会議は廃止でよかったのに
国の権力を笠に偏狭なイデオロギーで軍事研究を妨害してきた反社会的集団である日本学術会議が特殊法人に移行しました。ぼくは廃止でよかったと思います。
日本学術会議 NHKより
菅義偉官房長官・首相による学術会議への会員の任命拒否は唯一評価すべき実績です。
日本学術会議の改革法成立、特殊法人に移行 問われる科学者代表
日本学術会議を「国の特別な機関」から特殊法人に移行させる改革法が11日の参院本会議で自民、公明両党や日本維新の会などの賛成多数で可決、成立した。
学術会議は、科学者が太平洋戦争への突入を止められなかったことへの反省などを踏まえ、1949年に政府機関として設立された。
近年の学術会議は、重要性に見合う活動をしてきたとは言いがたい。政府からの依頼を受けて意見を出す「答申」は2007年を最後に出していない。自発的に意見を出す「勧告」は23年が最新だが、内容は学術会議のあり方についてだった。科学的な意見は10年に出した科学技術政策についてのものまで遡る。
海外の科学アカデミーは、政府から独立して非営利法人や民間団体として活動していることが多い。設立の経緯から名称に「王立」などが含まれる場合が多いものの、政府から一定の距離を保っている。
われわれは、文化国家の建設者として、はたまた世界平和の使として、再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、さきの声明を実現し、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。
東大教員は学術会議の法人化をどう見ているか ②法学政治学・人文社会系・経済学・教育学研究科
大学院人文社会系研究科 教授
私の専門は医学の歴史ですが、医学が軍事と結びついたことはナチスや日本のように非常に頻繁に起きてきました。一方で、医学が人類学のような別の地域の研究と結びついたことも数多く存在します。前者は悪いこと、後者は良いことというような単純な二元論は成立しません。医学と軍事と人類学などの境界は、曖昧なものがあります。これらを慎重に考える必要があります。現在の日本では、まだまだ議論が足りないように思います。
大学院経済学研究科 教授
学術会議は「我が国の科学者の代表機関」などとされていますが、実際は学者の代表でもなく、日本の学術界を代表してもいません。会員の選考に関する情報がまわってきたこともありません。ですので一部の学術会議の関係者が、学者の代表であるかのような行動や発言を行っているのは迷惑です。
大学院経済学研究科 教授
私自身は6人の任命拒否の際などはぼんやりと問題だなとは感じていたものの、今は反対派の方々の活動の仕方や極端な言動・党派性を見て非常に疑問を感じ始め、このような人たちに勝手に「学術界の意見」を代表されるくらいであれば、政府のコントロールの方がよほどましだと感じるようになった。特に、弊学の一部教員については勝手に「東京大学教職員組合執行部有志」を名乗って勝手に組合の統一見解のように誤認されるような文章を同HPに掲載したり、Youtubeでのアジ演説のようなものを見て、この人たちや学術会議なるものの構成員というのはどういうレジティマシーがあって勝手に学術界を代表されるのか、そもそもこの組織の運営自体が極めて非民主的であり、それがゆえにこのような事態になっていると感じるようになった。米国の民主党左派の極端なDEI推進が逆向きの反動を生んでいるのに近い感じになっていることに近い感じで多くの研究者にある種のアパシーを生み出していると感じる。何故社会科学者(ではないかもしれないですが)であるのにもかからずこのようなことになぜ無自覚であり、党派的に極端な主張を前面に押し出して自分のイデオロギーを前面に出すのか理解に苦しむ。学会・研究者の世界のより多くの人の意見がきちんと集約されなにのであれば、そのような機関の独立性にどのような価値があるのだろうか。
学術会議問題:迷惑な学者の「正義」の押し売り 衛藤 幹子(法政大学法学部政治学科教授)
私は戦争には断固として反対だし、私自身はそうした研究には関わりたくはない。しかし、全ての軍事的安全保障研究への非関与を誘導することには到底賛成できない。
どのような研究に従事するのか、それは研究者個人の良心や倫理観の問題であって、学術団体で一律に決める問題ではないと思う。
この学術会議の声明には「学問の自由の侵害だ」という反論が寄せられているが、当然だ。政権による任命拒否が「学問の自由の侵害」なら(私自身はそうとは考えていないが)、学術会議も研究者の研究の自由や機会を奪っていると言われても仕方あるまい。
私が問題にしたいのは「学問の自由の侵害」ではなく、学界が自らの「正義」を絶対的なものとして他者に押し売りする点である。
学術会議の声明は絶対平和を追求するのが「絶対的正義」であり、この声明に賛成しないのは不正義だと決めつける。安保法制反対もしかり。集団的自衛権を容認しないことこそが「絶対的正義」であり、どのような観点からであれ容認するのは許しがたい不正義だと容認派を徹底的に責めて、排斥する。その排斥の最たるものが、一国の首相を罵倒し、物騒な言葉で威嚇する行為であり、某大学の賛成派の学長の再任拒絶であったと思う。
学術会議声明批判 戸谷 友則 東京大学大学院理学系研究科天文学専攻
「いかなる軍事研究も禁止されるべきである」という考えが,現在の研究者あるいは一般社会の間で広くコンセンサスを得ているとは到底思えません.「軍事」と「戦争/平和」の関係はそう単純なものではないでしょう。
現実を踏まえると,ある国で軍事研究が禁止されることが,果たして世界平和につながるのかどうかも怪しくなってきます.平和主義に基づいて軍事研究をやめてしまうような国があるとすれば,それは民主主義や人権が確立した「良い国」でしょう.そうした国々が軍事を放棄して,そうではない危なっかしい国々ばかりが軍備を増強するような状況が,人類にとってよいと言えるのかどうか.
学術会議の声明を素直に読めば,学術会議はすべての研究者に対し,この制度には応募しないことを求めており,従わない人は審査制度によって縛るということです.政府や防衛省などより,学術会議のやっていることのほうがよほど常軌を逸しています.一つの団体が権威をもって特定の考えをすべての人に押しつけ,その自由を拘束するというのでは,戦前の軍部と変わりません.
端的に言えば日本学術会議は「我が国の軍事研究を許さない。我が国が軍事研究をしなければ世界は平和になる」というトンチキなものです。
軍事研究の是非は個々の学者や研究機関が決めればいい問題です。それに彼らの言う軍事技術も大変あいまいだし、軍事技術に関する見識もない。鶴を折ったり、死んだふりする活動家と同じレベルの「お気持ち平和主義」で軍事研究に脊髄反射しているだけです。
そんなものは科学でもなんでもなく、単なるイデオロギーです。その昔中国共産党はSF小説は科学の啓蒙に有用だからOK、推理小説は犯罪を誘発すると発禁でした。それとおなじようなものです。
しかも学術会議は恣意的に主要メンバーを選定でき国の権威を活用できるが、国や外部の関与は否定するというものです。まさに虎の威を借りたカルトです。
それほど軍事技術が嫌いならば中国からの留学生を全部禁止にしろ、米国はもとより武器で儲けているスイスやスウェーデンとの学者との交流も禁止し、ノーベル賞も否定しないといけないはずです。また理学や工学系だけではなく「軍事利用」可能な歴史、国際関係論、外交、社会学なども研究禁止にしないといけないかと思います。
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財政制度分科会(令和6年10月28日開催)資料 防衛 防衛(参考資料)
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編集部より:この記事は、軍事ジャーナリスト、清谷信一氏のブログ 2025年6月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、清谷信一公式ブログ「清谷防衛経済研究所」をご覧ください。