《京都男児死体遺棄事件》現場に大量の献花や供え物 自分を見つめ直しながら考えた「いいこと」をする難しさ【コラムニスト・石原壮一郎氏寄稿】

遺体が発見された現場付近には、花束や飲み物などが供えられていた=16日午後2時(共同通信社)

 京都府南丹市で発生した男子児童の遺体が遺棄され、父親が逮捕された事件。発見現場には児童を悼むために多くの人が訪れ、お花やお菓子などが供えられている。コラムニストの石原壮一郎氏は、そんなニュースを見て、訪れる人たちに敬意を示しながらも感じたことがあるという。石原氏が考察する。

 * * * かなり昔の話ですが、当時の同僚(男性)がとある月曜日、休日に焼いたという手作りのクッキーを職場で配ってくれました。無骨なタイプでしたが、味も見かけもプロ顔負けの出来栄えです。ほかの同僚も私も「おいしい!」「すごい!」と大絶賛。「また食べさせてよ」と言ったのは、けっしてお世辞ではなく本心でした。

 何となくの予想に反して、その「また」の機会はすぐに訪れます。同僚は翌週もそのまた翌週も、「今度はこういうのを作ってみたんだけど、どうかな」と、バリエーションを変えたクッキーを持ってきてくれました。たしかに、どれもおいしい。しかし、私も含めて同僚たちは、だんだん彼のクッキーを素直に喜べなくなってきました。

 彼に悪気がないのは百も承知です。クッキー作りにはまっていて、作るのが楽しくて仕方ないのでしょう。お返しなんて期待していないことも重々わかっています。しかし、もらいっぱなしというわけにはいきません。どんなお返しをすればいいのか、お昼をご馳走するのがいいのか、でも何度もご馳走するのもヘンだし……。

 幸い、彼のクッキー熱は一ヶ月ぐらいで冷めてくれて、私たちも悩む必要がなくなりました。そのときに「『いいこと』をするというのは難しいものだな」と、しみじみ感じたものです。その後、彼は会社を辞めて洋菓子店を開き……というドラマチックな展開があったわけではなく、そのまま定年まで勤めあげました。

 話はガラッと変わります。私のどうでもいい思い出話と繋げるのは極めて不謹慎だということは、よくわかっています。ただ、京都・南丹市のあの痛ましくてショッキングな事件で、遺体発見現場に花束などが大量に供えられている光景を見て、久しぶりに彼のクッキーを思い出しました。

 報道で事件を知って遠くから訪れ、花やお菓子や飲み物を供えて手を合わせるというのは、なかなかできることではありません。もちろん、私も犠牲者を悼む気持ちはあるつもりです。しかし、現地に献花に訪れる人たちが抱いている強い思いとは、比べものになりません。その深いやさしさと行動力には、心からの敬意を表します。

 はたして自分は、家族や周囲の人に十分に心を寄せることができているだろうか。痛みや悩みをきちんと受け止めているだろうか。仕事にせよプライベートにせよ、自分のやるべきことができているだろうか。直接は知らない少年のために行動できる人たちの美しい心根を見習って、及ばずながら自分を見つめ直してみようと思います。

 いっぽうで花束などが大量に供えられている光景を報道で見て、さまざまな“雑念”に惑わされずにいられません。うろ覚えですが、何年か前に住宅地で事故があり、塀の前に大量の花束などが供えられました。家の持ち主が取材に応じて「片付けるのがたいへん」とこぼしたところ、ネット上で大バッシングを受けたことがあった気がします。

 なんて気の毒な話でしょうか。あえて失礼な表現をさせてもらいますが、家の前に毎日たくさんの「ゴミ」を捨てられたら、たまったもんじゃありません。しかも、片付ける苦労を口にしたら、おそらくは献花した人とはぜんぜん別の無関係なヤジ馬から、「花を供えた人の気持ちを何だと思ってるんだ!」と非難されてしまい……。

 今回の献花も、誰かが片付けの苦労を強いられたり、誰かが心無い非難を浴びたりしないことをお祈り申し上げます。ただ、献花に訪れた人たちの気持ちを尊重しつつ、鳥や動物の被害を防ぐにはどうすればいいのか、いい方法は思い浮かびません。

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