東條英機はなぜ「日本必敗」と知りながら日米開戦したのか(アーカイブ記事)

歴史

猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』がドラマになり、今夜NHKで放送されるという。ドラマにコメントするのも無粋だが、この本の歴史書としての評価は高くない。

メインキャスト発表! #NHKスペシャル#戦後80年 の夏に送る実話に基づくドラマ#シミュレーション ~昭和16年夏の敗戦~8/16(土)・17(日) 夜9時~<前後編>[総合]

脚本・編集・演出 #石井裕也出演 #池松壮亮 #仲野太賀 #岩田剛典 #佐藤浩市 ほか 

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— NHKスペシャル(日)夜9時 (@nhk_n_sp) July 16, 2025

あらすじは総力戦研究所が出した「日本必敗」という机上演習の結論を東條英機首相が無視して日米戦争に突入したという話である。しかし総力戦研究所は研究機関ではなく、若い軍人・文官の教育機関で、戦力で日本が勝てないことは、当時の陸海軍(机上演習の教官)には既知の事実だった。

陸軍は日米開戦に反対だった

むしろ謎は、戦力に大きな差があることを知りながら、なぜ東條は勝機があると考えたのかである。この点について陸軍(武藤章軍務局長)は開戦に反対したが、参謀本部(田中新一作戦部長)は強硬策を主張し、激しく対立していた。

軍事の常識では、政府機関である軍が参謀本部の作戦を指揮するのであってその逆ではないが、日本では統帥権の独立によって参謀本部が天皇に独自に上奏できる制度になっていたため、両者は同格で争った。

両者を統率する近衛文麿首相も日本必敗であることは知っており、1941年9月6日の御前会議で日米開戦の方針が決まったあとも抵抗したが、東條に押し切られた。10月12日の荻窪会談のやりとりは有名である。

東條 統帥は国務の圏外にある。総理が決心しても統帥部[参謀本部]との意見が合わなければ不可なり。総理が決心しても、陸軍大臣としては之に盲従はできない。

近衛 今どちらかでやれと言はれれば、外交でやると言はざるを得ず。戦争は私は自信ない。自信ある人にやって貰わねばならぬ。

東條 これは意外だ。戦争に自信がないとは何ですか。それは国策遂行要領を決定する[御前会議の]ときに論ずべき問題でしょう

東條は徹底した前例主義で、内閣と参謀本部が共同で天皇に開戦撤回を上奏しない限り、軍は従わないと主張した。天皇の下に多くの組織がバラバラに並び、指揮系統がない日本型組織の欠陥が露呈し、近衛は開戦を目前にして辞任する。

参謀本部の戦略には日米戦争がなかった

参謀本部はどういう戦略を考えていたのだろうか。帝国国策遂行要領で田中新一は「南方戦争を先行させ、自給自足体制を固め、アジアにおける対英米優位の地位を確保した上で北方戦争に乗り出し、この間に国際政局の変化に乗じて支那戦争を解決する」という戦略を描いていたが、そこには驚いたことに日米戦争がなかった。

海軍が対米決戦を求めて中部太平洋に奥深く進攻する「攻勢」を主張したのに対して、陸軍は南方・太平洋で「守勢」をとり、その兵力を大陸に転用することを主張した。アメリカについては「日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せしむるに勉む」と書かれているだけだった。

アメリカが和平交渉の打ち切りを通告してきてからも、田中はこれをヨーロッパに参戦するまでの「時間稼ぎ」とみていた。彼の関心は最後まで「北支及び満蒙の特殊地域化」にあり、アメリカは東南アジアの権益にさほど強い関心はもっていないと思っていた。

自由主義とデモクラシーは最強の武器だった

陸軍も日米の物量の差はわかっていたが、短期決戦で一撃を与えれば、アメリカは戦意を喪失して勝負がつくと考えた。戦争を遂行するには日独のような全体主義の指導力が必要で、個人主義のアメリカ人はすぐ逃げると考えたのだ。陸軍省軍務課の石井秋穂は、こう回想している。

あの自由主義の国、あのデモクラシーの国で、あの厖大なる国力をあの速さに、あの規模に戦力化し得るとは考えなかった。我々は自由主義とデモクラシーを甘くみたのである。(石井回想録)

当時のアメリカ政府内でも、東南アジアで対英戦争が起こった場合、アメリカが参戦するかどうかについて意見はわかれていた。孤立主義的な国民もアジア参戦には否定的だったが、状況は真珠湾攻撃で一変し、世論は日本への報復に沸き立ったのだ。

自由主義もデモクラシーも、ヨーロッパの長い戦争で生き残った制度である。絶対君主と傭兵では、長期戦は戦えない。全国民が「自分の国だ」と思って戦力でも補給でも協力しないと、総力戦には勝てないのだ。日本軍が見誤ったのは、自由主義とデモクラシーこそ国家の最強の武器だということだった。

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